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香港、重慶大厦にて(97年) |
自分について語ろうとする時、僕は雄弁になりすぎるか、言葉を探しあぐねて途方に暮れるかのどちらかだ。
語れば語るほど相手に伝えたい自分の姿が遠のく。押し黙れば、沈黙以外に何も生まれない。世界の片隅でじっと息をひそめている一人の人間に、誰が眼差しを投げかけてくれるのだろう。
だから、僕は少なくとも沈黙ではない何物かによって自己を表明する。
一つの妥協の産物として、僕がどのような嗜好を持っているのかを示そうと思う。
ある人は、嫌いなものは何かと尋ねるかもしれない。それに対して、ワタナベトオルのように、「鳥肉と性病としゃべりすぎる床屋が嫌いだ」と即答することは僕にはできない。世界には僕の嫌いなものが(おそらく向こうも僕にいい感情を持っていないだろうと推察されるが)溢れている。それに何より、海の深きをたどるより、山の高きを見上げる方がやりやすいからだ。
今の僕を支える2本の柱。それは、「村上春樹」と「アジア」。
村上春樹は小説という手段を通じて、二つのことを示唆してくれる。生活と人生。この二つは似て非なる存在である。あるいは、現在(過去の集積としての)と未来と言ってもよいだろう。
そしてもちろん、文章がたまらなく僕の好みなのだ。
雰囲気だけを楽しむ小説は多い(例えば、吉本ばななの作品)。内容を味わうことのできる小説もありふれている(例えば、いわゆる純文学)。だけど、その両方を黄金の配分で兼ね備えているのは、知る限りでは村上春樹だけだ。
いかなる物理的、精神的状況にあっても、彼の小説のどこかには、僕の心の深い部分に沁みわたる言葉が並んでいる。例えば、無人島で孤独に過ごす夜でも、遥か銀河の彼方に宇宙の始源を探索する船の中でも、あるいは黄泉の国にあったとしても、物語として語られる言葉は必ず力を持つだろう。
なぜアジアにひかれるかは、まだ答えを見つけていない。それに対する答えが出た時、僕は大人になっているのではないかという予感が、街灯に照らされた雪片のように脆く舞っているだけだ。今はそれをつかんだと思っても、次の瞬間にはかなく溶けてしまう。だけど、いつの日かより堅固な何かに変わり、それを握りしめることになるであろう。
アジアのあの興奮、熱気には僕の魂を揺さぶる何かがあることは確かだ。
それに、ひょっとしたら、できないと分かっていても、雪を手のひらに収めようとする類の努力が好きなのかもしれない。
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