文章を書こうと思う

 淀川長治の死から、漠然としてはいるが何事かを学んだ。いや、単に知った。もしくはそこにいたるきっかけを得ただけかもしれない。
 今はまだ整理して言葉にすることはできないほどぼんやりとしてはいるのだが、核になるのは「自分の好きなこと」「仕事」「人生」といった物事である。
 僕は何事によらず、自分に引きつけて考えることが多い。今回、彼の足跡を振り返るテレビ朝日の特別番組を見て(もっとも、テレビ局としてはこの日が遠くないという予想の元でスタジオを車椅子で出る彼の後ろ姿を収録したのだろうが。そしてそれも彼らの仕事である)、「じゃあ、自分が好きなことは何だろう」「それに対して、いかほどの努力を払っているのだろう」ということを自問した。明白だ。「文章が好きだけど、大したことをやっているわけじゃあない」
 少し以前に友人の一人がホームページを開設した。できうる限り毎日1000バイトずつ日記を書こうというものだ。僕が好きな文章の方向性とは相反する癖が見えかくれするものの、全般に好感を持てるからこそ、ほぼ毎日のように彼の日常を読んでいる。いや、日常ではなく、それに対する彼の観察眼と表現を文章として読んでいるのだ。
 よい文章を読むと、書きたいという欲求がわいてくる。彼の日記を読み始めてから、自分も定期的に書いてみようと思った。そのまま行動に移していなかったのだが、淀川長治の死をきっかけにして僕なりの進行方向を一つつかんだ。欲求が臨界点を突破してあふれ出した。
 文章を通じてどうこうしようと言うよりは、むしろ書くという行為そのものを行おうと思う。あふれた先がどこに流れ行くのか、どれほど流れ続けるのか今の僕にはよく分からない。
 しかし、同じ日記を書いたのでは面白味が薄い。まだ枠組みが定まっているわけではないのだが、「一週間に一度」のペースと決めて、「自分という範囲」を超えないようにする。前者は現実的に継続可能な範囲の設定で、後者は無責任にならないようにという戒めである。もっとも、文章というのは表現手段であり、他者に受け入れられることが前提に据えられているのだから、個性はあっても独善に陥ることは避けたい。


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