美容院での会話

 髪を切った。しかも、茶色でメッシュを入れてみた。
 就職活動のためにと4月頃に一回散髪屋に行って以来、ずっと放ったらかしにしていた。ゴムで束ねたり、ヘアバンドで押さえたりで長い髪を持て余していたのだが、ちょっとした気分転換もかねて美容院へ。
 美容院というのは日本では始めてのことなので(チェンマイでは一度行ったことがある)、なかなかおもしろい体験だった。
 しかし、店員はよく話しかけてくるものだ。
 下宿の近くの散髪屋に通っていたときにもあれこれと話しかけられた覚えがある。「会話」というのは、髪を切る職業の方には基本的なサーヴィスの一つとして捉えられているのだろうか。理容・美容専門学校のテキストには、「お客様を楽しめるために」なんていう章があって、「積極的に話しかけましょう」と教えられるのかもしれない。だとしたら、もうちょっと発展させて、「話題の実例100…小咄から地球環境問題まで」なんていう巻末付録があってもよさそうだ。
 はさみを動かしながら(チョキチョキ)「お客さん、ところで、こんな話しがあるんですけどね。あるところにおっちょこちょいな男がいてね……」(チョキチョキ)、という具合に。それで、それぞれ店員の得意な分野や持ちネタがあって、店に入ったら店員の名前と共にリストアップされている。それを見た上で、「じゃあ、今日はばかばかしく笑いたいから、『駄洒落』が得意な彼に切ってもらおうかな」という具合に選んでみたりする。
 でも、そんなお店があったとしても、僕は「得意分野:なし…無口です」と書かれた人を指名してしまうような気がする。
 果たしてそんなテキストで勉強したのかどうかは全く知らないが、僕の担当をしてくれた若い男性とは気の毒なくらい話しが合わなかった。よかったらどうぞと渡された数冊の雑誌の中で、男性ファッション誌や写真週刊誌には興味をひかれなかったので、消去法的に映画の雑誌を手にした。そうしたら「映画好きなんですか?」と聞かれたのだが、別に好きというほどのものではない。だから、この話題はうやむやの内に立ち消えてしまった。
 「学生さんだったら、何をやってるんですか」と言われ、「農学部で…」と返事をしたら、「へえ、僕も農業高校だったんですよ。畑作ったり…」と、彼は共通の話題が見つかったと喜んだように見えた。しかし僕の専攻は農林経済学という文系的なもので、土をいじったのは、3回生のときの週一の農場実習だけなのだ。これもすぐに沈黙に取って代わられた。
 今度からは彼のためにも文庫本をポケットに入れてから出かけようと思う。わざわざ持参した本を読んでいれば、そんなにひっきりなしに話しかけてくることはないだろう。
 「あれ、村上春樹ですか。僕大ファンなんですよ」と声をかけられたら、それはそれで楽しいかもしれないけども。
 短く茶色い髪になった後、ありがたいことに周囲の反応は概ね好意的なものだった。しかし、「うん、この方が絶対にいいよ」とまでほめてくれた数人については、逆に伸ばしていたときの方はあまりよくなかったと暗黙のうちに言われているのではないかとも勘ぐってしまうのだ。


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