電車通学

 夏の旅行前に、4年と少々を過ごした京都を離れ、実家にもどってきた。10月に入ってから、卒論制作が本格化してきて(というか、ようやく動き始めただけだ)、かなり頻繁に通学している。ここ5年間で最も頻度が高いのではないだろうか。もちろん、今までもほぼ毎日学校へは出かけていたが、それは、「go to the school」ということであって、「go to school」では決してなかった。
 僕は僕で一人でやっていくペースをつかんでいたし、両親は両親で、僕に続いて妹も家を出ていたから、それに基づいたリズムができあがっていた。それぞれの暮らしに新たな人間が加わったわけだから、お互いに軋轢もあったりする。だが、もちろん利点もある。僕にとって最大のものは、通学時間が生じるということである。
 家から学校までは大体1時間半から2時間ほどの道のりである。阪急電車を十三で乗り換えて、河原町まで。そこから市バスで農学部前というバス停まで。この時間をいろいろと巧い具合に使えるのだ。
 家を出たらまずMDを聴く。録音しておいた、前日分のNHKラジオの「やさしいビジネス英語」を復習し、その次に放送されていた英語ニュースを聴く。
 休日の日中は観光客が多いのだが、少なくとも平日であれば、補助椅子はまず空いているので、そこに座って本を開く。高校3年間も電車通学だったのだが、その時に身に付いた習慣である。
 持ち歩く鞄には、常時少なくとも2冊の文庫本がある。一つは頭が空っぽでも読める本で、もう一つは多少気合いを入れて活字を追わなければならないものである。別に頭が空っぽだったら、無理して本を読まなくてもと思われるかもしれないが、僕は強迫症的なまでに活字中毒なので、何も読むものがないという状況は想像できないのである。だから、読み終わったのに、新しいものに入れ替えるのを忘れた場合などは、仕方なく車内広告をつぶさに読むことになる。阪急電鉄は、ポリシーとして、品性の恐ろしいまでに欠落した雑誌の広告は扱わないので助かっている。
 今は、「アンナ・カレーニナ」と「村上朝日堂の逆襲」(今までにも何度か読んではいる)を持ち歩いているのだが、このように小説とエッセイというパターンが多いような気がする。ちょっと前の組み合わせは、堀辰雄の「菜穂子」と「寺田寅彦随筆集」であった。この4冊からだけでも、いかにとりとめがない読み方をしているかがばれてしまうのだが。
 そもそも不健全な読書傾向の持ち主なので、手に取る内の9割方が小説である。そして残りの1割はエッセイ。何の難しい理由もなく、単純に「わくわく」できる物語が好きなのだ。
 帰りの電車では、どこかでもう一度は英語の復習にあてるようにしている。たまに、車内で同じように「ビジネス英語」のからし色のテキストを開いている人がいると、「むむむ、負けられないぞ」と勝手にライバル心を燃やしてしまう。あるいは、英字新聞やペーパーバックを開いている人に出会うと、「むむむ、僕もあれくらいスラスラとページをめくれるようになりたいものだ」と密かに目標とする。
 だが、電車やバスの座席というのは、なぜにあんなに心地よいのだろうか。がたごとと揺られながら深く腰掛けていると、物語を頭の中で構築しようとしていても、闇雲に目が活字を追っているだけということがよくある。そしてそのまま、栞を挟むこともなくうつらうつらとしてしまうことが、ままあるのだ。座席でのうたた寝に打ち勝つよい方法はないものだろうか。


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