また一つの旅

  これまでとは少しだけ心の持ち方が違うバンコク。さすがに4月に結婚式出席のために来たときほどは、もう暑くない。雨期に入っているのだ。果物が豊富に並ぶ季節でもある。旅行カバンは、旅の目的や形態によって「バックパックかスーツケース」という択一だったが、今回は「バックパックとスーツケース」を携えてやってきた。
 タクシーに告げる行き先は日本大使館。本当の目的地はその少し先に住んでいる友人の家。この街の生活基盤となるべきアパート探しの間、とりあえずは不要のスーツケースを一つ預かってもらえるということで。だけど、実際に会ってみると「いいよ、しばらく泊まっていきな」という本当にありがたいお言葉をいただいた。先だっての結婚式のときにはさほどでもなかったが、彼の奥さんとは一目でそれと分かるほど大きなお腹で再会。いくら図々しい僕でも申し訳なく思う。でも口から出たのは「あ、助かります。ありがとうございます」だった。
 カオサンに行くか、という心づもりはしていた。実に3年以上安宿とは縁がなかった。空港でたまたま手に取った「バンコクguide」には、カオサンについて興味深い記述があった。「最近ではおシャレな店や人気のクラブなども増え、貧乏旅行者ならずとも注目したいスポットに変貌を遂げつつあります」
 何事だって変わってゆく。貧乏旅行者として首からパスポートを提げて、バックパックを背負って、Tシャツ短パンにサンダル姿でぶらぶらしていた僕も、今回は学生ビザで入国。
 実に久しぶりに学生をやる。学ぶ先はチュラロンコーン大学文学部タイ語集中コース。やはりタイが好きなのだ。大学の頃から教室に通い、ちょこちょこタイ語をやってはいたものの、一念発起してみっちりと身につけてみたいと思った。
 いや、それは結果でしかない。結局のところ、知らない空気を吸いながら暮らしてみたい、という欲求がふっと臨界点を超えた、ただそういうことだ。留学であるけど生活であり、同時に旅の延長線上にもある。そもそも、僕にとって生活と旅との分界点というのは曖昧なものなのかもしれない。
 一日が既に経った。マンションの大きな窓から見えるのは、赤いバスや工事現場や、背の高いホテルなどであり、自分の居場所をなんとなくつかむことはできるが、それは決して確たるものではない。ああ、バンコクなんだという中立の感想が口をついて出てくる。それ以上でもそれ以下でもない。
 旅する理由も、バンコクである理由も未だ明確にならないまま、新たな暮らしが始まる。クルンテープ、すなわち天使の都と呼ばれる街で。


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