馴染む
「旦那はどちらからいらっしゃったので?」「日本から」
「お仕事か何かですか?」「いや、タイ語の勉強をしに。でも、本当にタイ語って難しいね」「十分にお上手じゃないですか」「いやいや、まだまだ」
「私も日本で働いてみたいんですよ。トラックの運転手なんかしてお金を稼いで」「でも、今の時期なんかもう寒いよ。冬には雪も降るし」「そうか、寒いのは苦手ですね。何をする気にもならないから」
「あ、そこの交差点右に曲がって下さい」「ってことは、アジアホテルの近所ですか?」「う〜ん、そこまで行かない、セーンセープ運河の手前のカセームサン1の路地を入って」「はいはい、前のタクシーが曲がった所ですね」
「私ね、子どもが二人いるんですけど、タクシー運転手の稼ぎではなかなかね」「子どもさん、かわいいでしょ」「ええ、そりゃあもちろん」
「旦那はご家族は?」「独身だから……」
土曜日の午前4時前のタクシーで、こういう会話を交わしていたことを昼過ぎに目覚めて思い出して、自分のことながらに驚く。「集中タイ語コース」というものの威力、実際にその言葉を話す人たちの街で暮らすことの意味の大きさ。
これまでより一段階高い所に上がったという感覚と、その次に現れる高い壁、そしてそこを乗り越えようとするストレスフルな努力、そしてある瞬間に突破したことを知る心地のよい感覚。このサイクルが、これまでに全く経験したことがないほど速く巡っている。
最近は「予想していなかった発話に対応できる」という壁を超えた。状況を理解して、予め相手の出方を考えた上での会話の組み立てなら、決められたパターンでなんとかこなせていたのだが、最近は唐突なコミュニケーションにも、少しではあるものの即時対応できるようになってきた。
週に一度ほどの用事に出向くマンションの警備員に誰何されるようになった。これは、僕は髪型のせいだと思っている。「同じ髪型で、2、3センチ切って」というリクエストだったのに、できあがったそれは全く別物で、「ああ、タイ人にこういうのよくあるな」という感想だった。1ヶ月近くその違和感を抱えていて、今度は少しだけ値段の張る別の店へ行ってみた。拙いタイ語で希望を伝えてみたが「英語話せますか?」という店員のあっけない一言で、言葉を切り替えてしまった。
「髪の量が多いから、少し染めた方が軽く見えていいですよ」
こういう認識は別に日本でもタイでも同じようだ。何ヶ月か前に日本で軽い茶色にしていたのだが、そろそろそれも尽きてきている。いい機会なので、色をつけることにする。店員がビニールの前掛けをつけて、鼻につくべっとりとした薬剤を頭髪に塗りつけている間、高野悦子の「二十歳の原点序章」をめくっていた。のめり込むほどに共感を覚えながら読んだ僕の二十歳のころよりは、少し離れた視座にいる自分がある。
期待の線を少しだけ踏み超えて、これまでで一番明るい色になった。ヘアスタイル集の写真を示したにも関わらず、相変わらず髪型は納得しがたい。が、まあよいだろう。方向性はともかく、変身願望が少しだけ満たされた。
大学受験をしたのがおよそ8年半前。その頃は日に12時間を超えて机に向かうのもざらだった。恥ずかしながら、人生で一番「勉強」をしたのはその時期だった。それ以降はそこまでのものはない。当時を思い出すと、今やっている勉強量は本当に軽いものだし、まだまだいけると思う。
タクシー運転手との会話に続いて、好みのヘアスタイルを伝えられる、という壁を超えるべく。
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