おまけで生活する

 ハイネケンの瓶には味がある。大瓶よりも小瓶ならば特に。一口にビールの小瓶と言っても、よく見るとそのラベルのみならず形状も少しずつ違っている。緑色のハイネケンのそれは、立ち居振る舞いが慎ましやかに凛としている唯一のものだと思う。中身が見える、透明度の具合もさわやかでちょうどよい。
 本当はハイネケンを買うつもりではなかった。タイの地元のビールよりも、5バーツばかり値が張る。たったの5バーツだけど、一日一本飲むと仮定して一ヶ月で150バーツ、一年だと5000円強。大した金額ではないし、それ以外の無駄遣いの方がよっぽど多いのだけど、日常生活においてはこういう物の考え方に僕は少しだけ拘る方だ。
 タイ語のコースが終了する来年6月以降の身の振り方をまだ考えていないので(年内は考えないことに決めている)、またこの部屋から動く可能性も十分にある。日本に戻るかもしれないし、バンコクで暮らし続けるかもしれない。長い旅をするかもしれない。あらゆる可能性を留保していると、細々とした日用品を揃えるのは後々にかえって面倒になることに思い至る。できるだけシンプルに暮らすべきだ。
 これまでに手に入れた台所用品は、果物ナイフとスプーンだけ。ナイフは主にマンゴーやパパイヤを切るためで、スプーンはその実をすくって食べるため。ナイフは自分で買ったけれど、スプーンはヨーグルトのおまけについてきたものだ。
 必然的に缶ビールばかり飲んでいた。だけど、どうしてもグラスに注いだビールが忘れられない。冷蔵庫で冷やしておいたグラスを取り出し、美しい比率に泡をたてるように静かに注ぎ、肌理の細かな露が外側をそっと覆う。飲み進むにつれ、泡の跡が天使の輪を形作る。そんな情景が頭の片隅に居座って離れなくなってしまった。
 そしてそれは、缶ではなくて瓶である必要がどうしてもあった。偏見という種類に含まれるかもしれないけれど、缶ビールはその手軽さ故に物足りなさが否めない。でも、そうするとグラスだけではなくて栓抜きも必要になる。
 そういうのが好きならば、バーにでも行けばいいではないかと思われるかもしれない。けれど、この喧噪の街にあっては、僕もそれなりに努力はしているものの、「本が読めるほどに静かなバー」というのにはまだお目にかかっていないのだ。大体がやかましい。BGMはボリュームが大きすぎる。バンドなんかが入った日には、会話すら覚束ない。以前遊びに来た友達が的確な疑問を呈した。「この国には中庸ってもんがないんですか?」 現在知っている限り、答えは否である。だから本を読みながらビールを飲むには家しか選択肢がない。
 ある日、近所のスーパーの酒売り場で、ハイネケンの小瓶の6本パックに栓抜きがおまけでついて売られていた。いいタイミングだ。その足でグラスを一つ買った。そして心ゆくまで、グラスに注いだ瓶のビールを味わった。つまみはピスタチオと野菜入りのクラッカー。
 だが、台所が使い慣れないためか、アルコールのせいか、あるいは双方の理由からか、買ったばかりのグラスをいきなり流しの角にぶつけて、見事に大きなヒビを入れてしまった。世の中、何もかもがうまい具合に進むとは限らない。
 でも、その次に買い物に出かけたときに、おまけ付きのハイネケンはもう売っていなかったけれど、今度はカールスバーグの6缶パックに、グラスが一個ついていた。
 今は少し不本意ながらもカールスバーグの缶ビールをグラスに移して飲んでいる。缶の緑色が少しばかり鈍重に過ぎるように目に映る。この次はやっぱりハイネケンを買って来よう。


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