覚えられない

 僕の記憶力は決してよい方ではない。そして、日常的な活動において、その記憶力の悪さは多方面において現実的な悪影響を及ぼしている。
 プールで泳いでいて往復の回数を数えているつもりが、すぐに分からなくなる。
 冷蔵庫に常備しているものが切れて、メモを怠ったばかりに買い忘れる。逆に、曖昧な記憶に従って気を利かせたつもりで買ってきた野菜を冷蔵庫にしまおうとしたら、既にしっかり一束収まっていたりする。
 もっと短期的な記憶も不確かだ。ご飯を炊こうとして水を入れる段になって、はてお米を何合入れたのだっけと分からなくなり、もう一度計り直したりする。
 普段はそんな頻繁にやり取りしていなくても、誕生日になるとメールを送ってくれる友人が何人かいる。本当に嬉しいのだけど、逆にその送り主の誕生日を僕が覚えているかと言うと、決してそうではない。恋人の誕生日なんて、すっと頭に入って留まりそうなものだけれど、これもすごく難しい。一、二度尋ねるならまだしも、あまりに頻繁だとあらぬ疑いを抱かれかねない。だから、必ず手帳に記入しておくことにしていた。
 そして何より、このデメリットが最大限に発揮されるのが人名。もう、どうしようもなく脳味噌に定着しない。学生時代に塾講師としてアルバイトをしていたとき、20人もいないほどのクラスを一年間毎週教えていたけれど、正直なところ内の3、4人の名前が最後まではっきりとしなかった。当然ながら顔は覚えているし、それぞれの性格や能力や教える上でのポイントなど、名前以外はちゃんと分かっているにも関わらず。「名前」の記憶を司る脳のどこかに問題があるのかもしれないとさえ思う。
 タイ人は誰しも本名以外の呼称を持っている。それは、「ニックネーム」や「あだ名」という語から想起される存在とも異なったニュアンスを持つので、ここではタイ語からそのまま「チューレン」と書くことにする(「ちょっとしたお遊びの名」、というくらいの意)。
 相手の名前を呼ぶ状況を考えてみる。友人どうしならチューレンを用いる。あまりにこれが当たり前なので、親しいが故に思わず本名を忘れてしまうという場合すらあるそうだ。
 僕自身もチューレンを持っている。「カムロン」と言う。「影響力を持つ人」という意味合いがある。大学の先生がクラスの全員につけた内の一つだ。ただ、彼女は命名の理由を、本名が「Kei」だからその最初の子音を共通させたと言う。日本語に例えればそれは、マイク君を「Mから始まる名前だから、今日から『誠』君と呼ぶことにしましょう」というくらいに、かなりぞんざいなものなのだが。
 また、一般的な状況では、姓ではなく名を用いる。よほど堅い場でなければ、姓を使うことはまずない。でも、関係性や状況によってはビジネスの場でもチューレンが用いられることはままある。現実というのは、えてしてややこしく一筋縄ではいかないものだ。
 こちらの会社で働き初めて、このことが自身の個人的な欠陥と相俟って、特に電話の応対に関してすごく困っている。
 僕の席に与えられた電話番号は、以前は隣席のチャトゥラパット氏が使っていたもの。だから、彼あての電話がよくかかってくる。彼のチューレンはトンと言う。一音節だし、最も頻繁に話しをする相手だから、こちらはさすがにすぐに覚えた。
 手許の電話が鳴る、おそるおそる「サワディー・クラップ(もしもし)」と対応する。一番ありがたいのは「トンさんお願いします」というもの。たまに、いきなり「トン、いてる?」というようなのもあるけれど。こういう場合だと、「お待ち下さい」「ちょっと席を外しております、折り返しましょうか?」「電話中ですが」などと普通に返せばいい。
 でもそれが、「チャトゥラパットさんいらっしゃいますか?」と来ると、その複雑な音の名が頭に入っていないから、僕はもうパニックになる。後から思うと苦笑ものだけど、一番ひどいときには、相手に向かって「あんた、誰?」というような発話をしてしまったことすらある。
 だけれども、2週間も経過するといくらなんでも慣れてきた。名前に限らず、仕事の場においては僕のタイ語能力はいつも背水の陣を敷かされる。結果、聞き取りの能力は飛躍的に向上したと自分でも感嘆しているほどだ。
 だけど、問題がそれで全て解決したわけではない。「ワチャラポンさんいる?」という電話がたまにかかってくる。誰だそいつは。トンさんに尋ねると、僕の番号を二代前に使っていた人で、今は別の部署にいると言う。その名が出るたびに彼の名に初めて出くわしたような気がして、わけがわからないことになる。いくら言葉として聞き取れたところで、名前を覚えるというのはまた別の能力。

*「カムロン」に関する事情はもう少し複雑で、僕のチューレンであるこれは、実際のところはタイ人の本名として用いられるもので、通常はチューレンではあり得ない。


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