二律背反、第三者
あまりこれまで知ることがなかった朝のバンコク。混んでいるBTS(Bangkok Mass Transit System;市内を走る高架電車)も、仕事向けの恰好をした人たちも新鮮に目に映る。熱帯の国である、ネクタイや上着を身につけている男性をほとんど見かけない。
ちょうど8時に駅にいると、時刻を告げるアナウンスに続いてスピーカーから「タイ族の血肉が集約されたタイ国」で始まる国歌が流れ出す。
その場にいた乗客は立ち止まり、警備員は背筋を伸ばして敬礼。だけどさすがに電車は線路上で止まったりはしない。ホームに滑り込み、また走り出して行く。乗客も乗り降りする。降りたときに国歌が聞こえていたら、後ろの人の邪魔にならない程度まで歩みを進めた後に立ち止まる。曲が終わると同時にまた歩き出す。大勢が一斉に止まったり動き出したりするこの情景は結構な見物だ。
たまたま8時はラーチャダムリとサラデーンとの駅の間にいたから、国歌を聴き損ねた朝。サラデーン駅に着き、周辺のオフィス街に出勤する大勢と共に地上へ。
階段を下りるとき、たまたま目の前に盲人用の杖をついた男性がいた。恥ずかしながら僕は勝手な好奇心からふと目を遣ったのだけれど、隣を歩いていた男性は彼の腕に手を添えた。僕よりもいくらか若いくらいの人だった。そして改札まで共に歩き、そこから先は警備員が交代した。僕が向かう側と逆の出口だったのでそれ以降のことは知らないけれど、こういうシーンに出会ったのは決してこれが初めてのことではない。自分ができないものだから、よけいに「いいな」と思った。
車内でも、実に頻繁に席を譲る光景を目にする。観察していると、ここには日本よりもう少し確実な輪というかシステムというか、一つの成り立ちが存在するように思われる。個々はちょっとした出来事に過ぎないかもしれないが、そういうことが連なり得るのである。そこに大きな意味があるように思う。仏教思想なのか、道徳の問題なのか(切り離しにくいけれど)。仮にその人が、階段の下にいる物乞いには一瞥をもくれなかったとしても。
僕の目から見ておもしろいのは、妊婦・老人・障害者などだけではなく、子ども、具体的には幼児から小学生くらいまでに席を譲る習慣があることだ。なぜ、どう見ても健康優良児の見本のようなその子に?
以前チュラ大で、交通に関わる議論の授業中に質問を発したら、先生から「個人的な推測だけど」という前置きで回答をもらった。
そもそもBTSは新しい存在である(1999年12月営業運転開始)。それまで市内大量輸送を担っていたのは各種のバスである。中でも特に緑色の小型バスは個人経営で、収入を上げるには効率よく運行する必要がある。結果、スピードが上昇する。急発進に急停車、カーブを曲がるときにも勢いよく。すると車内はよく揺れる。そのため、安全の観点から小さな子どもたちを席に着かせる習慣があった。BTSはもちろん危険な運転をするわけではないけれど、おそらくはその習慣がそのまま適用されているのではないか。
ただしいずれにせよ、人を気遣うBTSでの情景とは全く逆のケースもまた、等価な日常風景として存在する。
典型的な例が車優先の思想。多くの交差点で左折車は常に通行が許される。制御されるのは直進と右折のみ。日本だと車が止まるべきだと思われる交差点のタイミングでも、止まるべきは人の歩みの方。うかうかしていると、スピードを落とさず突っ込んで来られてヒヤリとすることもある。
僕は免許を持っている日本でさえ優良のペーパードライバーなのだから、こちらでも運転することはない。また、電車内では「譲るべきか否か」という躊躇も面倒だし、よしんば「どうぞ」と口に出そうとしても、その瞬間に先に隣の人がすっと席を立ったときの内面の恥ずかしさが嫌だから、よほど疲れていたりしない限りは座らない。なので、この(僕にしてみれば)背反性も、第三者としての観察に基づいたものだ。
「血の滴の全てを犠牲にして国のために捧げよう。興隆しゆく国、タイ国に勝利と栄光を」で結ばれる国歌を、毎日のように耳にしておもしろいなと思っていられる理由もまた同じところにあるのだと思う。もしも朝の阪急梅田駅で同じことが起こるのだとしたら……その時刻にはホームに居合わせないですむような電車を選ぶのではなかろうか。
・国歌の日本語訳は筆者本人による
・「タイ族の血肉が集約されたタイ国」で始まる国歌であるが、タイはタイ族以外にも、モン族、シャン族、中国系、マレー系、インド系などなどが暮らす多民族国家である。この歌詞には、国歌制定当時(1939)のピブンソンクラーム首相によるナショナリズム的政策(ラッタニヨム:国家信条)の影響が残る。
<参考リンク>
・バンコク留学生日記ータイ王国について(タイ語による歌詞と私訳、メロディーのasxファイル)
……上記ファイルが不調のようなので
・タイ王国国歌(Thai National Anthem)の試聴
・Bangkok Mass Transit System Public Company Limited
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