水底に横たわる

 プールに寝てみた。プールサイドに、ではなく。
 バンコクで部屋を探す場合、プールは大きな要素の一つである。BTSあるいは地下鉄の駅の近く、洪水しない通りに面している、セキュリティに信頼が置ける、などの諸条件の一つと同等である。少なくとも個人的には。
 何も泳ぐだけがプールの利用法ではない。プールサイドで読書をしたり、ビールを飲んだり、あるいは昼寝をすることも、ままある。
 たまに数家族が集ってパーティーらしきものが開かれていることがある。大人達はパラソルの下で冷えたワインを飲み、子どもたちは水の中ではしゃぎ回っている。
 日曜の午後、誰もいないプールに仰向けに浮かび、ぼんやりゆらゆらしていて、ふっと思いついた。この格好で、沈んだらどうなるだろう。
 北側三分の一くらいの部分の深さは1メートル程度。ちょうど陽が当たってきらきらしている。浅いから、水も温かだ。ゴーグルをかけ、底にぺたりと腰かける。左手で鼻をつまみ、上半身を後ろに反らしながら背中、首、頭の順に着水。そのまま息を吐き続けると、肺の容積が減少する分、浮力が小さくなり、ゆっくりと沈むことができる。自分の口から生まれた空気の泡が上って行くのを見詰めながら、そのまま水底に寝そべった。
 寒季の水色の空と、そこに覆いかぶさるような椰子の葉とが、ゆらりと水の向こうに映る。時間が経つにつれ、自分がかき回した水の動きが落ち着き、風景が定まる。足の先の方は、ぐっと水深が深くなっている。そちらの水面を見上げると、水中の風景が全反射され、水色のタイルが浮かんでいる。どこか遠くで犬が吠えている音が聞こえる。
 水の中に全身を浸すのは、それだけで快感である。このままずっと眠ってしまえたら、とも思う。ただ、スキューバダイビングをしているわけでないので、直に酸素が恋しくなってくる。自分の心臓の音が、駆け足になって耳に響く。よいしょっと上半身を起こし、息を吸う。
 ふとした奇妙な思い付きだったが、とても気持ちがよかった。この後も、何度か繰り返してみた。
 沈みながら何かを考えていた気もするのだが、それが何だったかは覚えていない。ただ漠然とした、総体的な記憶が残っているだけだ。水に包まれる感覚、水を通して目に映る光、普段とは違って耳に響く音。それは、不思議に穏やかなよい心持だった。
 そう言えば、「グラン・ブルー」という映画(リュック・ベンソン監督、1988年、フランス)で、ジャック・マイヨールと、エンゾ・モリナリの二人が、パーティー会場のプールサイドで水底に潜るシーンがあった。どちらが長く潜っていられるかを競おうと、服を着たまま水に入り、底でワインだかシャンパンだかを酌み交わす二人は、結局ほうほうの体で引き上げられるのだが。
 この二人は、フリーダイビングの伝説的存在である。彼らだから絵になる。僕は来週末もまた、水底に寝転がってみようと思っている。ただし、人目がないことを確かめてから。絵にならないどころか、どう考えても土左衛門だろう。


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