ギリシア神話を知りません
ここ最近、自分の文体が変わった。太陽が昇り、沈むことが繰り返される以上、僕という人間も刻々と変化しており、その人間が書く文章だって当然変わっていく。時間軸を持たない平行世界も、どこかに存在するのかもしれないが、少なくとも我々の住む宇宙はそのようにできている。変化は必然である。
これは何も、今回に限ったことではない。自分で過去の文章を読み返してみて、「今ならこうは書かないな」「これはもう書けないな」と、感じることがある。
昨日と今日で劇的に変わることはないが、年単位くらいでみると、はっきりとする。そこには、特段の契機があるわけではない。ただ、今回に関しては、創作を書いたということが大きな要素にあるだろうとは思う。それがどう作用しているのかは不明だが、脳のどこかのスイッチが入り(あるいは切れてしまったのかもしれない)、頭に言葉がひょひょひょと浮かんでくる。
僕が何かを考えるときには、基本的に頭の中で言葉を読み上げる形で行われるので、正確かどうかはともかく、最初から語句や文章として存在している。そして、僕はそれを白いiBookのキーボードに打ち付けないわけにはいかない。そのときの感じが、ちょっとこれまでと違う気がする。
英語で文体を表す「スタイル」は、「鉄筆」を意味するラテン語の「スタイラス」を語源とする。文章は「打つ」ものではなく、石版に「彫る」ものだった時代のことだ。
ギリシア神話において、歌と記憶を司る9人のムーサ(ミューズ)の女神たちの中に、文学方面を担当する神がいることは広く知られている。叙事詩を司るカリオペー、抒情詩のエウテルペー、恋愛詩はエラトー、といった具合に。
さらに、彼女らとは別に、オリンポス山の頂、季節の女神が守る雲の門の向こうに暮らす、スタイラースと呼ばれる神もいる。彼は、文学というよりも、もう少しニッチな分野を司っていた。文体、である。怪物を討伐したり、果敢にもゼウスに挑戦したり、あまりの悲劇故に空に祀られ星座になったり、といった華々しいエピソードを持たないので、もしかしたらあなたはご存知ないかもしれないが。
ペルセウスがメドゥーサの首を落とした際、大地に染み込んだその血から誕生したのが、ペガサスである。スタイラースは、アテナを讃える詩をうたったことで、その寵愛を受け、ペガサスを御する黄金の手綱を賜った。
しかして、アウトドアな性向の持ち合わせがないスタイラースは、こう思う。
「けっ、なんやっちゅうねん。なんぼ天馬を駆って天空の高みから地中海を一望しても、北斗七星まで出かけてみたところで、別におもろいことあらへん。そんなんより、自分の家で葡萄酒でも飲みながら、しこしこ文章を書いてる方が性に合っとるわ」
そして、恭しくアテナの手許に黄金の手綱を返還する。その際、ふと心に浮かんだいたずらっ気から、ペガサスの羽根を一枚抜き取った。
跛引きの名工、ヘーパイストス神に頼み、その軸の先に永遠に欠けない鋼を取り付けてもらった。そして、葡萄酒の杯を傍らに、クレタ島で採れた目が覚めるように真っ白な石灰岩でできた板に、そのペンでカリカリと予言を綴る。例えば、「バンコクの雑文書き、創作をでっちあげた後に、文体変われり」といった具合に。
だが、ここで実にギリシア神話的な展開が発生する。彼は、アテナの不興を買ってしまったのだ。
「わらわの贈り物が気に召さぬとは。不遜なり、スタイラース。今後は、うぬが葡萄酒を口にする度に、この上ない苦しみを味わわせてやろう」
かくして、アテナの錫杖は振り下ろされた。
毎朝スタイラースはこう思う。「頭は痛いわ、吐き気かてひどい。文章なんか、てんで頭に浮かばへん。酒なんて、もうやめや」
だが、彼は懲りない。つい酒の入った革袋を開けてしまう。何せ彼の館の三軒向こうには、ディオニソス(バッカス)が住んでいたものだから。
喜々として飲む。そして二日酔いに見舞われる。後悔する。泉の水を口にし、なんとか復活する。またペンを取る。そしてまた飲む。これが繰り返される。アテナの罰、実に恐ろしい。「シーシュポスの岩」にさえ匹敵する。
僕たちはこの神話に、二つの意味を読みとることができる。まず、「スタイラースの石碑にある以上、文体とは人智を越えて変化するものなのだ」ということ。そしてもう一つは、覚えておくべき教訓である。「異性からの贈り物を、返却するなどもってのほか」
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