3度目のロイクラトン

 ロイクラトンが盛り上がる水辺の内でも最大の一つ、チャオプラヤ川に架かるタクシン橋周辺。僕は、そのすぐ北側、シャングリラホテルの高層階のベランダから夜の風景を見下ろしている。ここに住む友人が誘ってくれたのだ。
 橋の両側には大勢の人が立っている。川の上には食事を楽しむクルーズ船や、近隣の人の生活の足である渡し船、あるいはレストランの送迎船などなど、大小様々の船が30隻以上も視界に入る。その合間を、赤色灯を回転させながら、水上警察の船が行き交う。
 川の中央部に浮かんだ、4隻か5隻の船から、息つく間もなくやたらめったらに花火が打ち上げられる。あんまりに近距離なもので、大きな音はまるで頭の中で鳴っているようにさえ聞こえる。
 真っ直ぐな軌跡を残しながら勢いよく上昇した光は、その頂点で弾ける。あるいは巨大な球体を夜空に出現させ、あるいは幾筋もの柔らかな放物線を暗闇に描き出す。それらがまた、川に向かって建つマンションやホテルの窓ガラスに反射し、二倍、三倍もの明かりをもたらす。瞬間的に真昼のように幻惑させられる。南へゆっくりと向かう湿った風に乗って、白い煙と郷愁を誘う火薬の匂いとが眼前に運ばれる。
 とめどない光と音と煙と匂いとのたまの合間に、僕は思い出したようにライムをきかせた冷たいジントニックを口にする。
 そして思い至る。ロイクラトンも3度目だ、と。
 昨夜、別の友達とコンラッドホテルのバーで飲んでいた。チュラ大の同級生だ。お互いにタイに住んで2年半近くが経っている。バンコクの生活に慣れてきた、という見解について、似たような感想を持っていることに気付いた。それは、どちらかというと否定的なニュアンスで語られた。
 例えば僕は、一週間を流してしまうことができるようになっている。慣性がもたらす、低い滑空の内に、何の感興もないまま月曜から金曜が流れていく。はっと気付いて、そのことに身がすくむ。
 僕は本質的に、変化を求める。そして変化の欠乏による心の昂ぶりの平準化がもたらす、日常に倦む感覚を強く忌避する。
 ある人は例えば、極端な話、洞窟にこもって座禅を組んで20年を過ごしていても、毎日違う宇宙を旅することができるのかもしれない。だけど、僕が宇宙を旅する感覚を得るには、実際に宇宙を旅する他ない。これは単なる想像力の欠如であり、極めて端的に言うならば、頭の悪さであろう。なぞったことのあること、教わったことにしか頭を巡らすことができない。だから僕は、実体験の枠組みを、あるいは10年に一度くらいは枠組みそのものを、拡大・変容させようともがき続けている。
 新たなことを獲得するためには、具体的に自分の足で先に進むしかない。そうしないことには、極めて凡庸かつ強力な存在に取り込まれてしまう。その、実体を持たない灰色の悪魔は、「平凡」や、あるいは「無実」と言った名で呼ばれる。そいつは、「慣れ」や「妥協」を母胎に産まれ、最初は些細なところから、次第に全てを心地よく蝕んでいく。しまいには、生きる意義を温かな濃霧の彼方に遠ざける。何より恐ろしいのは、その感覚は必ずしも不快ではないという点だ。
 ロイクラトンも3度目だ。まずいな、と心の片隅で警告が発せられている。  


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