新しい生活

 今、朝に晩に、radikoを使ってFMラジオを聞いている。休みの日は、ほぼ流しっぱなしだ。
 エフエム京都、α-STATION。地下鉄の中でも、放送局のエリア外でも、手元のiPhoneから常に高音質で放送が流れてくる。久しぶりに日本に暮らすことになって、たくさんの驚くことがあったが、ああ、これが一番うれしいことかもしれない。
 僕はむしろ、環境の変化を嗜好する性格で、結構どこでもなじむことにはそれなりに自信がある。特に3年と3ヶ月を生き延びたインド、ニューデリーでの生活は、この思いをさらに強固にさせた。楽じゃないけど、なんとかちゃんとやってきた。
 今度の日本生活だって、帰ってきたというよりも、「さあ、次だ!」の先が、たまたま日本だったという意識の方がよっぽど強い。加えて「この次はどこだろう」という認識の割合も、減少しているものではない。
 が、そうでありながら、このラジオ局だけは、唯一「ああ、戻ってきたんだな」という気にさせてくれる。懐かしいという気持ちではけして、ない。自分が依って立つことのできる一つの流れはずっとそこにあった。その流れの色合いや、匂いや、映される感情の風景は、何も変わっていない。僕はちょっとよそに行っていた。そして、「やあ、久しぶりやん」というだけのことだ。
 インパクトのあるDJ(谷口キヨコ)のおしゃべりと、地元の放送局だからという理由で聞き始めた学生時代から、12年と半年前に日本を出るまで、だいたい、家にいるときはかけっぱなしだった。そのときと同じ番組、同じDJ、同じジングル、交通情報のBGMも変わらず、コマーシャルの提供社もなじみある所が多い。
 ネットワークに加盟していない独立局だから、全番組を通したコンセプトが一貫していて、地に足が着いている。悪く言うと泥臭いという部分も抱えつつも、ちゃんとFMらしい洒落っ気と先進性をまとっていて、そこに京都という、長い歴史を持つ土地の静けさが含まれているのが独特だ。聞き心地がよくて、飽きがこない。
 それでも、同じ番組名だけど、DJは変わっていたり、同じ名物DJでも、再会最初の興奮が収まってよく耳を澄ませてみると、時の経過によるその声質の変化は認めざるをえなかったり。逆に、その頃新しく出てきて「なんや、がちゃがちゃして落ち着かんしゃべりやな」と思っていた人が、ベテランらしい貫禄を身につけていたりもする。当たり前だ。
 長く日本を離れていたと言っても、少なくとも年に一度は、特に最後の3年は、半年に一度は日本に来ていた。その頃、現地出発前には決まって、とにかくこれだけはと強く願っていたのが、「刺身、ラーメン、生ビール」であった。もちろん今でもまだ、その3種への欲求は衰えてはいない。
 だがそれよりも、ラジオのスイッチを入れようと思う気持ちの方が、はるかに強い。(生ビールはちょっと別として)、刺身やラーメンは毎日はいらない。でも、気持ちのよいFM放送は、常にすぐそこにあってほしい。
 食べ物とラジオ、比較できるものでもないのだが、向かう気持ちの量の変化の理由を考えるに、ようやく一月半ほど経って、自身が日本にいることが、旅行から生活に移行完了したからだと思う。


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