注:これは、旅行記の番外編で、この文章で書かれている事件の当事者の手による記録です。

事件簿

「金曜日/1.事件の朝」

翌朝私は午前6時にゲストハウスを出て、8時30分のロイヤルネパールでバンコクへ飛び、バンコクで一泊。
そこから一気に帰国する予定だったのに。

そのゲストハウスは、タメルに向かう途中で知り合いになったイギリス人のカップルに教えてもらった。
もう旅に出て1年半になるという彼女たちもそのゲストハウスに泊まっていた。
『とにかく静かでいいよ』 ツインの部屋で150ルピー。ホットシャワーは共同。部屋は悪くないし、とにかく歩き疲れていたので他をあたる気力もなく決めた。
後になって思えば怪しかったのだけど、向かいのゲストハウスから(2メートル位しか離れていない)宿泊客ではないと思われる男の人3人位が私の部屋の方を見ていた。
私はちょっとどきどきして部屋のカーテンを閉め、バックパックをチェーンでベットの足にしっかりとくくりつけた。

その夜、あっという間の1ヶ月だったなあなんて、私はベットでぼーっと考えていた。
体調もよかったし、メコンデルタで30箇所くらい蚊にさされたけどマラリアにもかからなかった。
そしてこれといった事件もなかった。
このままこの旅は終わるんだなという寂しい気持ちに誰かが気づいてくれたのか(?)
事件は起こった。

一度4時頃に目が覚めて、腹に巻いていたキャッシュベルトがむずむずするので取り、 移動用のショルダーに入れ、ベットの足にくくりつけてあるバックパックの上に置く。
これはもう自業自得としか言いようがないのだけど、そのまままたベットに横になった。
なんとなく窓の外が騒がしい気がしたけれど『明日はシバラトリだしね』と何の疑問も持たなかった。
そして次の瞬間5時すぎに目覚めたときには後の祭りだった。
目が覚めると窓が開いている。
う〜ん。
誰か来たのか〜?なんてぼーっと考えていたら...。
あ''あ''あ''あ''〜!?カバンがない?
あと2、3時間もすれば機上の人のはずだったのに...。
それまで1ヶ月旅行をしてきて私は一度もキャッシュベルトをはずして寝たことはなかった。
最後だということで気がゆるんでいたのだろう。
ちょっとだけはずしたほんの1時間ちょっとの間にやられてしまった。

頭の中がちょっと白くなりかけたけど、私はとりあえずロビーに寝ている男の子を起こした。
『チケットとカメラと財布とT/Cをカバンごと盗まれた....』
彼らはとても眠そうだったけど、私の部屋に来てくれ窓などを調べてくれた。
すると窓の鍵が壊されていてに重になっていた網戸も切られて、泥棒はどうやら切った網戸から内側に手を入れて鍵をあけたらしい。
『君は部屋にいなかったのか?』『いや、いた...。』
『犯人を見たのか?』『いや...』
『君はどうしてたんだ?』『寝てた...』
『でも音は聞こえただろう?』『いや...』
『............』
後でこの話を話した人皆に『なぜ気がつかん!』といわれたけれど、 わたしはそのとき本当にすやすやと寝ていた。
泥棒のほうもどきどきしながら棒でつついてみたりしてたかもしれない。

泥棒は向かいのゲストハウスの2階の廊下から進入したらしいことが判明。
なぜならインドで買ったうす汚れたクルターと安物のサングラスが、向かいのゲストハウスの廊下に捨てられていたから...。
彼らは『こんなのいらない』と判断したらしかったが、残念ながらそこにチケットは捨てられていなかった。
彼らにとっては紙切れ同然のはずなのに...。
別に現金はどうでもいい。
T/Cもクレジットカードも再発行出来る。
でも残り少ないフィルムで厳選して撮ったヒマラヤの写真、 旅先で出会った人と交換したアドレス、そしてなによりも今日のチケット!
私は9日に日本に帰国し、母と14日からバリ島に行くことになっていたのだ。
私はいいとしても初の母娘海外旅行を楽しみにしている母親に申し訳なさすぎる。
母親になんて言おう...。
おろおろとしているうちに6時になり、空港までのタクシーをシェアすることになっていた日本人の男性が騒ぎを聞きつけて部屋に入ってきた。
彼も少しの間話を聞いていてくれ、いろいろアドバイスをしてくれたが、フライトの時間もあったので急いでタクシーで空港へ向かった。
『ネパールの人を恨まないでいてあげて下さいね』という言葉を残して。
そのときの私にはこの言葉が素直に聞けなかったのだけれど。

「金曜日/2.走り回ってはみたものの」

どうしようか考えていたらゲストハウスの主人に 『もしかしたら乗れるかもしれないからとりあえず空港に行ってみなさい』と言われ、 前日知り合ったイギリス人のカップル、リサとジョンに付き添ってもらって空港へ。
もう嫌だ、とにかくこの街から出てしまいたい...そう思っていた。

時間はぎりぎりで私はかなり焦っていた。
それに追い打ちをかけるかのように、そう、今日はシバラトリ−。
街中が朝からお祭り気分だった。
通行可能な道が限られているため遠回りをしなくてはならないし、通れる道でも子どもたちがロープを張ってとうせんぼをしている。
どうやら通るためにはおこづかいをあげないといけないらしい。
我々の乗っているタクシーも何度か子どもたちによって道を阻まれた。
みんな大はしゃぎで車のボンネットに乗ろうとするこどもまでいた。
車の開いた窓から私の方にも手を出すのだけれど、私はそのとき1ルピーも持っていなかった。
普通の状態だったら一緒に楽しめたかもしれないが、そのときの私はそれどころではなかった。
いらいらしている私の顔を見て、リサが困ったようにほほえんだのを覚えている。
勝手にいらいらして嫌な奴だなあと思ったけれど、はしゃぐ子ども達を見てかわいいなあなんて思える精神的余裕は全くなかった。
かなりの時間がかかったけど、なんとか空港にたどり着く。
リサが空港の職員に『彼女の名前はここにあるんです』といって一緒に掛け合ってくれたが、職員は『こちらには全く関係ない』と首を横にふるばかり。
空港のマネージャーにも掛け合ってみても結果は同じだった。
それまでは『英語が話せなくても旅は出来る』と思っていたのだけど このときは『英語が話せないと困る』ということを痛切に感じた。
辞書片手に話をしてもらちがあかない。
そんな自分をもどかしく思いながら、昨日出会ったばかりの私のために朝から一緒に走り回ってくれた、リサとジョンに感謝の気持ちでいっぱいだった。

まあ乗れるはずはないよなあ...と思いながらタメルにかえる。
とりあえず警察に行って、それからクレジットカードの会社やT/Cのアメックスにも電話をしなければ...。
もし家に電話をして送金してもらうとしても送金には時間がかかるし、 送金してもらってもチケットがそうすぐにはとれないだろう。
全くいつかえれるのかわからない状態になってしまった。

冷静に考えると万が一あのまま乗れたとしても、 バンコクから大阪は飛べなかっただろうし(よく考えたら無一文だった...危ない...) 警察に行かなければ保険も下りなかった。
全てが中途半端なままカトマンズを去ってしまい、苦い思い出として残っただろう。
どう考えてもあの時私はカトマンズに残るべきだったのだ。

隣のゲストハウスに、前日知り合って夕飯を一緒に食べた杉井君が泊まっていたので訪ねてみた。
彼は私の顔を見ると『寝過ごして飛行機乗り遅れたん...?』
そこで事情を説明して、お金を少し貸してくれないだろうかと頼んだら、彼は 『俺も前に盗難にあったことがあるからチケット代分余分に持ってきてん。 もう旅も終わるし持っててくれた方が俺も余分な買い物せんですむから。』と笑いながら、出会って間もない私にチケットを買い直せるほどの大金をかそうとしてくれた。
私は迷った末、住所と電話番号を書いた紙を渡して、ありがたく彼の好意を受け取ることにした。

それから杉井君とゲストハウスの主人と警察に行った。
警察はタメルの少しはずれにある。
シバラトリーのせいもあってか(いつもかもしれないけれど)これが警察かというほどの開放感にあふれている。
それをみてかなり不安になったが、とりあえず事情を説明しようと一人の警官をつかまえる。
こちらは辞書片手に必死に説明するが、彼は『今日はシバラトリ−だし、とても忙しいんだよね』 と言って聞こうとしてくれなかった。
というよりも仕事をする気がなさそうだった。
見た目ではみんなとてもくつろいでいた。
片隅では散髪はしているし、お風呂上がりらしい警官たちが上半身裸で、銭湯によくいる親父のようにタオルを背中にぱしぱしいわせながらうろうろしている。
キャッチボールもしていたかもしれない。
『どこががいそがしいっちゅうねん!』と大きくつっこみを入れたいところだったが、 『ここはネパール。
そして今日はシバラトリー..。』と自分に言い聞かせた。
『日本の警察だったら...』などといってみても仕方がない。
杉井君は『俺がオーストラリアでやられたときは、とられてから1時間後には全ての手続きが終わってたけど』と話していた。そうここはネパール。
面倒くさそうに話を聞いていたお風呂上がりの警官に、とりあえず盗難証明書を発行してほしいと伝え、いつ何処で何をとられたかなどを書いた紙を預けたが、彼は 『今日はシバラトリーだから忙しい。明日は土曜日だし、次の日は日曜日だし。また月曜日に来て。』と言った。

かなりがっかりしていた私に、リサが『お腹空いたでしょ』といってクロワッサンをくれた。
そのクロワッサンを持って、近所のチャー屋に行った。
そのチャー屋にはいつもにこにこと元気に働いている男の子がいる。
昨日も彼は『ハイ、マダム!スペシャルチャー!』と何か特別であるらしいチャーを作ってくれた。
スペシャルチャーとは?
普通のチャーにインスタントコーヒーがふりかけてある、ただそれだけのものだ。
今日も彼は大きな声で歌を歌いながらチャーを運んでいる。
そんな路地裏のチャー屋で、ビール瓶のケースに座り、 クロワッサンを食べ、温かいチャーを飲んでいたら元気が出てきた。
とてもおいしいクロワッサンとチャーだった。

「金曜日/3.助っ人現る」

少し元気になった私には、まだまだ私がすべきことがたくさんあった。
でも今出来ることはアメックスへT/C再発行の、カード会社にカード使用停止の電話だけ。
大使館はシバラトリのため『今日は日本人の大使館員がいないから...』と言われるし、 次の日は土曜日で休みということだった。航空会社も同じく休み。
カトマンズには公衆電話はなかった。(と思う)
わざわざ電話をかけてくれる電話屋さん(?)のI.S.DやS.T.Dがある。
一軒の電話屋に入って電話をしようとするのだが、コレクトはかけてもらえないし(かけられないのではなくてコレクトは利益が少ないので嫌がるのだと後で知った) 電話屋の親父にはなかなか話が通じない。
イライラしながらカード会社やらアメックスやらに電話をしているとき、きちんとした身なりのした ネパール人に『どうかしましたか?』と流暢な日本語で話しかけられた。
私はとっさに身構えつつも、盗難にあったことを話した。
すると彼は『私が力になってあげます。私はこの上で日本食のレストランをしています。 奥さんは日本人です。』と言った。
私が信用していいものかどうか悩んでいたら、彼はレストラン・grill-fへ私たちを連れていった。
彼の名前はモハン・ティワリさん。
カトマンズと東京を行き来しながら日本車の輸入をしていて、この日本料理屋は最近オープンしたとのことだった。
『やきとり』ののれんもまだしゃきっとしている。
彼の奥さんの仁美さんも現れ、今までのことを話した。
仁美さん曰く、『モハンは仕事柄顔がきくから任せておけばいいよ』とのこと。
ここでは地元の人間を知っているかいないかによって、全く対応が違うとのことだった。
確かに警察でのあの対応にはがっかりだった。
そのことを話すとモハンさんが『警察署長さんは私の友達だから大丈夫』と。
なんて心強い。

さっそく警察署に再び出向く。
モハンさんがあのお風呂上がりの警官に話をすると、署長室に通され、 盗難証明書は即日発行されることになった。
やはりやればできるのだ。
署長さんはほっぺたの赤い赤ちゃん顔の大きな人だった。
『君は結婚してるのかい?』
『いえ。独身です。』
『ぼくは日本に行きたいと思っているのだけど、なかなかビザが下りないんだ。一番いい方法は日本人の女性と結婚することなんだよね。君はぼくのタイプなんだけどな。』 『はあ...。』
『明日ぼくは仕事が休みだ。二人でナガルコットに行かないかい?』
『いろいろな手続きが済めば...』
『大丈夫。すぐに片づけてあげるよ。』
『サンキュ...』
ここで署長の機嫌をそこねては...とおそるおそるこんな会話を交わしながら、私は盗難証明書が発行されるのを署長室の深く沈むソファーに座って待っていた。
盗難証明書は一人の若い警官が、私の書いた盗難届を見ながら書いていたのだが、 何回チェックしてもミスがある。字も汚い。
若い警官が何回も書き直しをさせられている間、私は署長とはずむトーク...。
結局仕上がった盗難証明書も字が読みづらく完璧とはいえなかったのだけど、もう6回も書き直していたし、これ以上は望めないだろうということでOKをだした。
これで保険は大丈夫..かな?
署長に深く感謝してモハンさんのレストランに帰る。

モハンさんは『チケットも何とかなりますから心配しないで下さい。』と言ってくれた。
だが『この混んでいる時期に本当になんとかなるのだろうか?』と心配せずにはいられなかった。
日本に電話をして母親に事件のこと、そしてモハンさんのことを伝えると、心配しながらも幸運にもモハンさんという人に出会えたということに安心しているようだった。
『でももしかしたらバリにいけないかもしれない...』と言うと『そう...』ととても残念そうだった。
私もとても残念だった。
後に母親が叔母に『バリに行かない?』と声をかけていたことを知るのだが...。

grill-fに帰るとモハンさんの親戚の新聞記者が来ていた。
彼はネパールの朝日新聞(?)といわれる『ライジング・ネパール』の記者らしい。
『最近旅行者がタメルで盗難にあうという事件が多いので取材したい』とのことだった。
盗難証明書を見ながら2つ3つ質問をされて、盗難証明書をコピーして、 世間話をして取材らしきものは終わった。
明日の新聞に載るらしい。

夕方、ぶらぶらとタメルを歩いているときに、前から来た大きな車にクラクションを鳴らされた。
たびたびすれ違う車にクラクションを鳴らされていたので、またか〜うるさいなあ... と思って相手を見ると、署長さんだった。
警察の車に部下を20人位引き連れて乗っている。
彼は車を止め、車の運転席から顔を出し手を挙げて『ハロー』とほほえんだ。
私も『ハロー...』と手を挙げて笑顔で返した。
ナガルコットに連れて行かれたらどうしよう...。

その夜はゲストハウスの主人が『お金はいらないからうちに泊まればいい』 と言ってくれたが、少し心細くなっていたので杉井君が泊まっていた北海道(どうしてだろう...)ゲストハウスに移った。
それから『せっかくカトマンズにいることになったのだし』と、杉井君とシバラトリーの街に出る。
街中のあらゆるところで人々が輪になって焚き火をしている。
北海道ゲストハウスの前の焚き火の輪の中に我々も入れてもらった。
皆が歌を歌い出す。
北海道ゲストハウスの下で、焚き火を囲んでいた人たちとチャーを飲んでいると、盗難にあったゲストハウスの主人がやってきた。
彼は『チケットはとれそう?』と心配してくれていた。
ゲストハウスにも警察が来て大変だったらしい。迷惑をかけてしまった。
彼にとっては迷惑な客だったろうに、ビールをご馳走してくれ、 盗難当日の夜はほろ酔い気分でベットに入った。
忙しい1日だったな。

まだまだシバラトリーは続く。
祭りの声がうるさくてなかなか寝付けない。
酔い歌い踊る人々の声をベットの中できいていると、 『盗難にはあったけどこうやってカトマンズに残れてよかったな』と思うようになってきた。

「土曜日/何も出来ない日」

朝起きると喉が痛い。カトマンズの空気と疲れにやられてしまったらしい。
今日は何をしようか。これといって出来ることはない。
とりあえず洗濯をして、またチャー屋に行きぼーっと時間を過ごす。
男の子は今日も元気だった。
『歌、いいね』というと照れながらチャーを運んでくれた。

そういえばタメルで『E-MAIL』の看板を見つけたなあ...と思い、友人青戸にメールを出してみることにした。
彼女とは今回の旅の最初に一緒にベトナムとカンボジアを回り、ベトナムで別れた。
メールはポカラでは1K50ルピーだったが、カトマンズでは25ルピーだった。
もちろん日本語では出せない。そして英語だとうまく書けない。
そこでローマ字で『GENKIDESUKA?WATASHIHA KATHMANDU DE DOROBOUNI ATTE SHIMAIMASHITA』などと、書いて出してみた。
ここでは返事も受け取れる。
翌日青戸からかなり心配しているという返事を受け取った。
当の本人はもうそれほどは落ち込んでいなくて、こうなったらカトマンズを満喫かねえ...なんて思っていたのだけど。
文章でしか様子が伝わらないメールで心配をかけてしまい申し訳なかったと思う。
後日青戸は電話で『一瞬カトマンズでさらわれたかと思った。ローマ字だったし脅迫文かと思って。』と言っていた。う〜む...、たしかに...。
その後も彼女とメールのやりとりをして、自宅に連絡をしてもらったり、HISにチケット再発行要請の連絡をしてもらったり。
彼女がいて、そしてメールが出せる状態にあって本当に助かった。

夕食をとろうとタメルを歩いていると、何度もどこかで見かけた人に出会う。
インドやポカラで出会った人たちだ。
インドから回ってきた人たちはカトマンズが最終地点という人が多く、ここへ来て体調を崩している人が随分といた。
旅も終わりだと思うからか、空気が悪いからか。
どちらもかな。

とりあえず現状の報告をしようとリサとジョンをたずねる。
しっかり者のリサと穏やかで無口なジョン。
彼女たちは1年半前にイギリスを出て、この後ベトナム・カンボジア・香港をめざしアメリカへ行くという。イギリスにはいつ帰るのか決めていないそうだ。
私の貧しい英語力のためにお互いの言いたいことがうまく伝わっていなかった気がするが、 私は彼女たちが好きだったし、彼女たちにはとても助けられた。
『明日ナガルコットに行くから明日の朝grill-fで一緒に朝食をとろう』

その後grill-fに顔を出すと、例のライジング・ネパールがあった。
もちろんネパール語。
よって仁美さんが読んでくれたが、名前がイマガワではなくタマガワになっている。
70000円のカメラは97000円になっていた。
確かにこの盗難証明書の字ではタマガワに読めないこともないけど。
新聞に載るというからどきどきしていたのだけど、なんだか逆にほっとした。
記念に新聞をもらいお休みなさいを言って、北海道ゲストハウスに帰る。
明日は何をしようかな。

「日曜日/再会」

朝リサとジョンと杉井君とでgrill-fで朝食をとった。
杉井くんはお昼のバスに乗ってイラムへ向かう予定だった。
紅茶好きの彼はイラムからダージリンへ。
それからバングラデシュに入るつもりだと語った。
彼とはここでお別れだ。
今まで私にいろいろとつき合ってくれたこと、お金を貸してくれたことに深く感謝して、 彼を見送った。
リサとジョンはナガルコットへ。
『明日の夕方頃には帰ってくるから』と。
しばしのお別れ。

朝食が終わり皆が去ってしまって、何をしようか考えていると『よかったらモハンのお姉さんの家に一緒にいきましょう』と誘われたのでおじゃますることに。
『ちょっとびっくりするかもしれないよ』といわれていたお姉さんの家は煉瓦造りのアパート。
その周辺の家に比べたら随分と立派な家だったと思う。

わたしはモハンさんに友達を紹介してもらったとき、皆のことをお兄さんと呼ぶので初めは『さすが兄弟が多いなあ』と思っていたのだが、モハンはお姉さんと二人兄弟だった。
ネパールでは自分の身近にいる目上の男の人はみなお兄さん(ダイ)と呼ぶ。
お姉さんはディディだ。
もうひとつびっくりしたことはモハンさんに年齢を聞いたとき『25才ぐらいだ』と言っていたこと。
モハンさんくらいの年齢の人は自分の誕生日を知らない人が多いらしい。
確かにそれほど重要なものでもないのか。

昼間はお母さんとお手伝いのヒラもこの家に来ていた。
ヒラは下層カーストの出身である。
仁美さんがネパールに来たばかりのころは、お手伝いが家にいるという感覚になじめなくて、 困惑したそうだ。まだ10才くらいの少女にこんなに労働をさせていいのだろうかと。
みなに反対されながらもヒラを家族の一員のように扱っていたある日、ヒラが突然働かなくなったという。
そして仁美さんの化粧品を勝手に使っていたずらをした。
皆がひどくしかりクビにすると言ったとき、ヒラは『ここをやめたくない。家にいても白いご飯なんて年に一度くらいしか食べられない。<家には帰りたくない。<』と泣いて頼んだのだそうだ。
ここでヒラを甘やかしてしまうと、ヒラはどこにいっても通用しなくなると仁美さんは感じた。
だからヒラにはきちんと仕事をさせ、これから先学校にも通わせると。
『イマガワさんも洗濯ものがあったらどんどん出してね』といわれたのだけど、 やはり私は自分で洗った。

お母さんは買ってきたばかりの赤い小さな大根を洗い、チリの入った塩と一緒に出してくれた。
これがまたやめられない。
それをぼりぼりとかじりながら皆で話をしているとき、モハンさんから電話が入った。
ポカラで別れた友達粟津くんと長谷川くんが今朝カトマンズ行きのバスに乗ったという。
彼らとはバンコクで待ち合わせ、一緒にインドを回りポカラに入って、そこで別れた。

その翌日は月曜日だったのでチケットの再発行のため航空会社に行く予定だった。
バンコク〜大阪間の大韓航空は友人青戸にメールで 『大阪のHISからネパールのHISに再発行の要請をしてもらえるようにたのんでおいて』 と伝えていた。
モハンさんによると大韓航空のチケットはオープンチケットだから再発行出来るかもしれないとのことだった。
だがバンコクで買ったチケットの領収書を挟んだ手帳が、とられたカバンに入っていたので、 チケットを購入した旅行会社に確認が取れない状態だった。
カトマンズ〜バンコクのロイヤルネパールが厳しい。
『ポカラにいる友達に聞けばきっとわかるけど...』とぼそっと言うと、モハンさんが 『どこのゲストハウス?』と私に聞いた。
『もし宿を移っていなければホテルパノラマ』 私はホテルパノラマのレシートを持っていたがあいにく電話番号はのっていなかった。
『だったらポカラに知り合いがいるから(モハンはポカラにもレストランを出す予定だった) 聞いてあげよう』と。
『でもまあ見つからないだろうな』なんて考えていたのだけど。

『富士レストランのまえのバス停に4時頃着くからまってるといい』といわれ、向かいの喫茶店で 仁美さんとレモンジュースを飲みながら張り込む。
店員のウシャさんは昼間は学校の先生、学校が終わるとこの喫茶店で働いているといった。
仁美さんがネパール人と結婚してカトマンズに住んでいることを話すとウシャさんはとてもうれしそうだった。
私にも『ネパール人と結婚しなさい』といいだす。
一瞬あの署長さんの顔が頭をよぎった...。

仁美さんが先にレストランへ戻ることになり、 私はウシャさんとかなり長い時間いろいろなことを話した。
話をしながらも到着するバスをチェックしていたはずなのだけど、 6時頃になっても彼らの姿を見つけることは出来なかった。
もう着いてしまってるのだろうか? タメルの中に入ってしまうと探すのが困難だ。
とりあえずお礼をいって店を出た。
店を出てしばらく歩いていると何かを忘れていることに気がついた。
お金を払っていない! 張り込みの間飲んでいた2杯分のレモンジュースの料金を払い忘れていた。
店に戻るとウシャさんが笑っていた。
『友達がみつかるといいね』 お金を払って、再びお礼を言って店を出た。

富士レストランの前で客引きのお兄ちゃんがいたので、 『日本人の男の人の2人連れを見なかった?2人ともクルタを着ていると思うんだけど』と聞いてみたが、わからないと言われた。
そりゃあわからないだろう。
バスで今日カトマンズに到着した日本人の男の人なんてたくさんいる。
彼らはタメルに来るだろうと確信はあったが、会えないかもな...とも考えていた。
その兄ちゃんもタメルへ帰るというので一緒に歩く。
『どこから来たの?』『日本』『大阪か?』 この旅行中、日本から来たというと、東京ではなく『大阪?』と聞かれ不思議に思っていた。
そのことを話すと『大阪の人は好きだ。ネパール人と似ているから。』と彼は答えた。
う〜ん、そうなのか?

とりあえず思いつくゲストハウスに入って訪ねて回るがそれらしき人はいない。
すれ違う日本人にもたずねて歩いた。
やっぱり無理だったか...と思いつつgrill-fに戻ろうとしたら、 仁美さんがgrill-fの前に立っている。
『友達見つかったよ!』 私はわけがわからないまま仁美さんについて行った。

レストランの中に入ると彼らが待っていた。
『うわ〜、また会ってもうた』『でもとにかく無事で良かった』 顔を見るとなんだかとてもほっとした。
後できくと彼らは突然grill-fに連れて来られ警戒していたらしい。
それはそうだろう。
今日着いたばかりの街で『君たちを捜していた』といわれたら、誰だって警戒してしまう。
私はなんだかうれしいような、恥ずかしいような、そんな気持ちだった。
でも会えてよかった。

偶然にも彼らの泊まるホーリーゲストハウスはgrill-fのすぐそばだった。
grill-fの使用人のオペンダさんが3件目で見つけたそうだ。
私の苦労って一体...。
彼らと一緒にホーリーゲストハウスに行くと、先ほどタメルまで一緒に歩いてきた兄ちゃんが 『ごめんね。さっき君が話していた男の人が彼らのことだとは思わなかったんだ』と謝っていた。
彼らをこのゲストハウスに案内したのはこの兄ちゃんだったそうだ。

それから私たちは5日ぶりの再会を祝おうと街に出た。
私は今までのことを堰を切ったように話し、彼らも私と別れてからのことを語った。
たった5日の間で私はちょっと大変な状態になってしまい、彼らはポカラでのんびりと過ごしていた。そしてまたカトマンズで出会うことが出来た。
あれ?私はなぜ彼らを捜していたのか? 彼らを捜していた目的の一つを忘れかけていたのだが、 彼らもバンコクの旅行会社の連絡先は知らなかった。
そんなことはもうどうでもよくなっていた。
とにかく会えてよかった。

その日はモハンさんと仁美さんが『うちに泊まったら』といって下さっていたので、 そうさせてもらうことにした。
3階建てのとても豪華な家で、確か階段は大理石だったように思う...。
2階はモハンさん夫婦、3階はお母さんとヒラが住んでいた。
私はお客さん用の部屋に通されたのだが、私が今まで泊まっていた部屋よりもはるかに広く、 バストイレに布団をひいても寝ることは出来るくらい広かった。
そこで私は3日ぶりのホットシャワーを浴びた。
北海道ゲストハウスは北海道ゲストハウスなのに(?)ホットシャワーが出なかったのだ。
なんにせよ風邪ひきにこれはこたえた。

その夜はほくほくとした体でベットに入った。
明日はとうとうチケットの再発行をしてもらうために、航空会社に出向く。

「月曜日/帰れる!」

いよいよチケットの再発行をするためロイヤルネパールと大韓航空のオフィスに向かう。
やはり私にはかなりの不安感があったのだが、モハンが『大丈夫。私に任せて下さい』と言ってくれたので、彼を信用していた。
もし再発行できなくても買いなおせばいいとも思っていた。

モハンさんと仁美さん私、そして粟津くん長谷川君も一緒にモハンさんの車に乗り込む。
ロイヤルネパールでのモハンさんは『仕事が出来るサラリーマン』という感じだった。
スーツを着た彼はいきいきとロイヤルネパールのオフィスを走り回って、所長さんと話を付けてくれた。
仁美さん曰く『彼はこういうの好きだから』。
そのおかげで私はとても助けられた。
かなりの時間がかかったけれど無事50ドルで再発行でき、なんと翌日の便のチケットが取れた!

急いで盗難証明書のコピーをとってきて欲しいと言われ(急がないと席がなくなると言われた...)、ロイヤルネパールのオフィスから出て走って仁美さんとコピーを探す。
そしておきまりのように、こういうときに限ってコピーが見つからない。
『コピー、チャ』(コピーはありますか?)『チャイナ』(ないよ) こんなやりとりを繰り返しようやくコピーが見つかった。
走ってオフィスに帰る途中で車に引かれそうになる。
『こんなところで引かれたら今までの苦労が水の泡や...』とぼそっとつぶやくと 『そうだね....』と隣で仁美さんがうけまくっていた。
チケットを受け取りしっかりと貴重品入れにしまう。

そして次は大韓航空のオフィスへ。
ここではすでに大阪の大韓航空からの連絡が来ていたらしく、行くとすでにチケットが発行されていた。
ここも同じく50ドルで再発行! また大事にチケットをしまう。

後に日本に帰ってからHISに電話をして50ドルで再発行が出来たことを伝えると 『あれ?おかしいな、オープンチケットだしお金いらないはずですよ...』
う〜ん...やられたのか?

夕方リサとジョンをたずねたが、昼寝をしているようだったので、 チケットが取れたこととお礼を書いたメッセージを残した。

この日もまたモハンさんと仁美さんの家に泊めていただく。
最後の夜。
今度こそ本当にカトマンズともお別れだ。
そしてこの旅も終わる。

「火曜日/帰る日」

帰れてうれしいけれど、なんだか寂しい。
チケットが取れてうれしかったのは母親とバリに行くことが出来るから。

朝皆でチャーを飲んだ後、モハンさんと仁美さんが車で空港まで送ってくれた。
モハンさんと仁美さんには本当に最後の最後までお世話になってしまった。
『これに懲りずにまたネパールに来て下さいね。』
ここまでカトマンズでいい思い出ができて懲りるわけがない。
『また来ます。』
私は本当にそう思っていた。

私は自分の運の悪さ、スキの多さにがっかりしていた。
初めは『カトマンズなんて大嫌い。早く帰りたい』と思っていたし、 『ネパールの人を恨まないでいてあげて下さいね』なんて言葉も素直に聞けなかった。
街を歩いていてもどいつが泥棒だ?なんて人々を見ていた。
すべてこの街のせいにして、最悪の気分だった。

盗難はもうこりごりだけれど、盗難にあったことは私にとってはよい経験だった。
これから先のためにも。
いろいろな人に迷惑をかけてしまったし、本当にお世話になった。
このことはずっと覚えていたいと思う。
あの日盗難にあわずにすんなり日本に帰っていたら、またカトマンズに来たいという気持ちはわかなかったかもしれない。多分ここまで強烈な印象を残さなかっただろう。
そして全てが中途半端なままカトマンズを去ってしまっていても、 もう一度訪れたいとは思えなかっただろう。
今またカトマンズを訪れてみたいと思っている。
ノーマルな状態でやり直したいという思いも込めて。
今度は私にとってどういう街になるのだろうか。


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