ドンムアン空港の24時間

 ソンクラン(水かけ祭り)の前日だと言うので、カオサンからドンムアンへ向かう空港バスは夜の10時発が最終便だった。それも普段よりも高い100バーツもした。
 まだまだ先のことなので、案内板にはMS865便の情報は出ていなかった。ざっと眺めているとインディアンエアラインズなどインド関連の便が、軒並み10数時間の遅れが出ていた。「やれやれ、やっぱりインドだな」と他人事のように構えていた。しかしそれが悲劇の序曲であったことに、まだ僕は気付きもしなかった。
 2時間前になったらカウンターに並ぼうと思い、とりあえず人の少ないターミナル2の方のベンチに横になっていた。一眠りしようと、アイマスク代わりにバンダナを巻いて。
 シンガポールのチャンギ空港では、絨毯の上で気持ちよく眠るバックパッカーの姿をいくつも見かけた。僕は眠るほどの時間があったわけではなく、その光景を眺めながら「気持ちいいだろうな」と思った。さすがに世界最高位に位置付けられる空港だ。しかしドンムアンはそうはいかなかった。ベンチはごつごつするし、床は冷たい。
 ほとんど眠りにつくことすらできなかった。仕方なく、ずいぶんと早いがカウンターの辺りでぶらぶらするか、と思いきやすでにいくつかの人影があった。
 エジプト航空のチェックインカウンターにはマジックで書かれた紙が一枚。「明日の23:30」「デリー空港でのストのため」
 味も素気もないが、衝撃の大きさは並ではなかった。
 係員は「明日の夜9時にもう一度カウンターへ来い」としか言わない。865便はデリーを経由しない。カイロから飛んでくるはずだ。どうやら、インド上空が、管制塔のストによって全て航空不可能になっているようだった。同様にエア・インディアやビーマンのカウンターでもちょっとした騒ぎになっていた。
 もちろん、こちらは正当な権利としてホテルを出すように言う。しかしエジプト人(おそらく)の係員は「ホテルは全て当たってみたが、祭りと重なっているため全て満室だった」と突き放す。
 「カオサンにいくらでもあるだろう」と突っかかった人がいた。しかし甲斐なく、しまいに諦めて床で寝ようとしたら、不遜にも「カオサンの宿よりはましだろう」と言われたそうだ。
 エア・インディアは早々に宿を確保してくれたらしい、という情報が余計に我々を苛立たせた。一人の日本人男性が粘って、結局サンドイッチと飲み物のヴァウチャーだけ出た。しかしこれはどうも日本人以外には発行していなかった。ちなみに、その時ビーマンの乗客はさっさと見切りを付けて市内へ戻ったり、あるいは雑魚寝の準備をしていた。航空料金の違いは、非常時の対応に的確に現れるものだ。乗客もきっちりとそれを知っている。
 空港内の喫茶店で先ほどのヴァウチャーを示し、パンとコーラを一本。この時僕はパンを二つ皿に重ねたら、さすがに見破られた。こんながめついことをするのは僕だけだろうと自身呆れていたら、実はもう一人いた。彼もレジで止められた。
 数人の日本人が一つのテーブルについた。その内の二人はちょうど僕と入れ違いくらいでサンタナを出たと言う。
 そこの喫茶店で店の迷惑を全く省みることなく、何も買わずに僕らは粘った。時間つぶしに格好のネタは「インド人悪口大会」であった。「けど、やっぱりインドにはまた行くだろうな」というのは言わずもがなの誰もが最初から持っていた結論である。
 次にカウンターが開くのは23時30分と書かれていたが、「夜中を過ぎたらホテル出せってうるさく騒がれるから、あれは何の根拠もない数字だよ」とあるオヤジが言った。「パキ(パキスタン航空)なんかは、23時59分だったし」
 確実な筋からの情報提供がないため、憶測が飛び交う。ちょうどインドで首相が退陣したというニュースが新聞などに載っていたため、そのあおりだろうという説から、最も強烈な「インドとパキスタンが戦争を始めたらしい」というものまで。
 「けれど、一日二日帰国が遅れたからって困る人は誰もいないんでしょ」と誰かが言った。それはそうだ。まあ僕もT/Cがまだ数百ドル残っていたし、問題はなかった。あと数日で新学期が始まるということくらいか。
 少なくともその場にいた我々は、むしろこの状況を楽しんでいた。
 話題は尽きることなく夜は更け、そして天窓から見える空はいつの間にか白み始めた。
 トイレに立つついでに状況を確認すると、天井からぶら下がる表示板は上から下まで全てDELAYED・CANCELED・UNIDENTIFIEDのいずれかであった。インドでのトラブルのため、インド以西からの便、すなわちアフリカ路線も、中東路線も、ヨーロッパ路線も全く飛んでいなようだった。
 朝方、席を確保したまま順に朝食を調達に出かけた。僕は第二ターミナルの最奥にあるファミリーマートで牛乳とパイを手に入れた。
 昼過ぎにさすがに猛烈な眠気が襲ってきたので、僕は喫茶店を後にして人通りの少なそうな辺りに新聞を敷いて目を閉じた。床は固く、そして冷たいがとりあえず爆睡。
 なぜか、きっちり1時間ごとに目が覚めてしまう。それでも状況に変化はなく、結局4時までは床に転がっていた。
 目が覚めると、先ほどまでは喫茶店にいたメンバーも「さすがにね……」と同じように新聞を敷いていた。
 一人が「トランプでもやりませんか」とザックから取り出し、新聞紙の上で車座になり、突如大富豪大会が始まった。
 誰しもそれなりに不安で、睡眠不足で空腹でもあり……。とにもかくにも、誰もが熱中した。いわゆる、ナチュラルハイの状態だ。誰も僕らを止められない。
 そんな僕らを止めたのは一つの不確かな情報だった。「ユナイテッドへの振り替え便が出たらしい」
 一人だけ荷物番に残って、もちろん彼女の搭乗券は預かって、それっと駆け出した。目指す先は、空港ビルの全く逆の側にあるエジプト航空のオフィス。
 カウンターにいた女性が「そこに座って待って」
 「飛べるのか!」僕らは色めきたった。
 ところが出てきた男(カウンターでもめた相手だ)がまたしても僕らの希望を打ち砕いた。「手続きはとっていない。とにかく9時に5番カウンターに来てくれ」
 もう一度だけトランプをやって、ずいぶんと予告時刻より早めだが、とりあえずカウンターへ向かった。865便より後の便に乗るはずの人も混じって、人口密度は急激に上昇していった。
 約束の9時になっても係員は一人として姿を見せない。10時過ぎ、トランシーバーで連絡をとっている係員に乗客が詰め寄る。僕もこの機に乗じて、カウンターの中へ。しかし係員の方には向かわず、あの機内預け荷物を流すコンベアの上を歩く。
 以前からコンベアの流れに沿って、あるいは逆行して歩く航空会社の制服を付けた人の姿を格好いいと感じていたから、真似をしてみたかったのだ。
 乗客は殺気立つ。係員も「そんなことを言われても、飛べないものは飛べない」と、自分の責任でないのになぜこんな目に遭わなくちゃいけないんだ、という態度だった。確かに互いに理不尽な状況にあったとは思うが、責められるべきはその状況ではなく、その状況に対する適切なフォローができないエジプト航空にある。が、格安チケットである以上、僕らの立場もそれほど強いものでもない。
 そして、時計は10時を回った。問題のエジプト人が出てきた。最前列に並ぶ我々に、とりあえず搭乗券とパスポートを渡すように言う。ずっと状況を注視していたから、即座に反応できたが、その僕らの様子を見て我も我もと手渡そうとした人たちは、残念ながら果たせなかった。しかもとりあえず渡せたものの、日本人でなければ突き返されていた。
 彼が僕らの搭乗券とパスポートを持ったまま、向かいの日本航空のカウンターへ行ったので、うまく渡せた人は追った。
 出た!JL718便。しかし出発予定時刻は10時30分。この振り替え便に乗れたのは、僕を含めて9人だけということを誰かの口から聞いた。
 喜ぶ我々とは対照的に、チケットが取れなかった人たちの視線は、氷のように冷たかった。しかし、3時間以上前からここに来て粘っていたんだ。応分の努力の結果ではないか。
 エジプト航空のバゲッジクレイムタグを示して「この荷物はどうなる?」と言うと「東京の方でコンタクトをとってくれ」と言われた。おそらくロストになるだろうと思ったら、案の定だった。僕の荷物は最終日の汗を染み込んだままのシャツや、キャップの開いてしまったリンスなどを詰めて、1週間の後に自宅に送られてきた。しかし責任は日航に移ったので、申し訳ないほどの対応だった。成田に着くと「エジプト航空から振り替えのお客様ですが」と向こうから話しかけてきて、「この度は誠に申し訳ございませんが……」と、こちらが恐縮してしまうほどであった。
 さて、離陸まで15分ほどしかなかった我々はパスポートコントロールを抜け、出発ロビーへ走った。
 入り口ではチーフパーサーが「お待ちどうさまでした」と頭を下げる。
 翼の真横だったのにも関わらず、エンジン音は小さく、僕は出力が足りなくてそのまま落ちるのではないかと心配したほどだった。離陸が嫌いな僕でも、何の恐怖も感じないほどになめらかなものだった。
 そして僕は相変わらずシンハを飲み、ジントニックとシーバスのロックを飲み、眠りについた。
 今まで経験したことがないほどの清潔な機内と、贅沢なほどに丁寧な乗員のサーヴィスをたっぷりと楽しみ、翌朝早くに成田に下りた。


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