夜の風景

 「暑苦しい」の、「苦しい」の方を強調したい。そんな部屋だ。扇風機のせいでのどが乾くが、止めるわけにもいかず、枕元に置いたペットボトルのキャップをひねる。夜中の間に、何度目が覚めたことか。汗臭い匂いには直に慣れた。けれど、ベッドから熱が放射されているのでは、と錯覚するほどの暑さだ。
 今まで泊まった中で最低の部屋だった。明日には宿を変えよう。朦朧とする意識で僕はそう決心した。

香港島を眺める
 白い太陽、緑の波がさざめくヴィクトリア港。香港島には、海とヴィクトリアピークとの狭間のわずかな土地にビルが林立している。岸壁に打ち寄せる波の音、船のエンジン音、バスターミナルから響く車の音。蜂のようなうなりを立てて、ヘリコプターが一機右から左へ飛んで行った。
 午後の光が容赦なく降る九龍半島の南端の遊歩道に座り、僕は冷たいサンミゲルの黒を味わう。呼吸が苦しいほどに熱い大気。海からの絶え間ない風によって僕は救われる。
 ベンチの一つに座ったビジネスマン風の若い男が、ネクタイを解き青いカッターシャツを脱ぐ。昼休みに日光浴とは、贅沢な時間の使い方だ。
 ふいにあるセリフが頭に浮かび、僕を捉えて放さない。「ビクトリアピークで一緒に夜景をながめたリチャードだよ」
 前回、ヴィクトリアピークから夜景を眺めたことは眺めたが、残念なことにピークトラムがストライキのせいで運休していた。よし、今度こそ、と僕は思った。
 何かをしようという思いが強く芽生えた。完調だ。
 香港、悪くない。
 2本のビールで1時間以上、僕はじっと海を見つめ、日差しを存分に浴びた。
 スターフェリー乗り場の近くにセブンイレブンがあるのは、僕にとって好都合だった。再びビールを買い込み、スターフェリーで海を渡ることだけを目的に下層デッキへ向かう。上層の方が値段が高いのだが、その分何が利点なのか僕には解せない。手を伸ばせば届きそうな所に海があり、船の中をまっすぐに風が吹き抜けることのできる下の方が僕の好みだ。
 船体の上半分は白く、そして下半分は緑色に塗られている。煙を吐く煙突には、星のマークがぐるりと描かれている。船員の青い制服にも胸には白い星が。
 スターフェリーとして、いくつかの船が運航しているが、そのどれにも星にちなんだ名前が付いている。「日星(SOLAR STAR)」「午星(MERIDIAN STAR)」「夜星(NIGHT STAR)」「世星(WORLD STAR)」……。二文字の漢字が、英語表記を挟むようにして船の前方に記されている。
 汗を落とそうと、宿へ。
 それでも10時過ぎに目が覚めた一条の光も差し込まない部屋を出て、シャワーを浴びた。門番の彼は「モーニング、フレンド」と挨拶してきた。確かに宿の雰囲気は良い方なのだが、いかんせんこもる熱だけは耐え難かった。
 とりあえずはB座を上から下まで歩いてみたものの、希望に叶う部屋は見つからなかった。踊り場の窓からわずかに光が見えるが、外をのぞいてみるものの、視界のほとんどは黒いビルの壁で占められる。ひさしには、ことごとく投げ捨てられたゴミが引っかかっている。エアコンから排出される水滴がはるか上方から滴っている。「世紀末香港」のイメージそのままだ。しかし実物の「香港」には、その視覚的なイメージに加えて、たまらないほど小便の匂いが空中に沈殿している。
 チョンキンのぼろエレベーターは、それぞれの座に偶・奇数階用の2基が設置されている。定員七名のところ、それほど体重がありそうでもない人が6人乗っただけでもブザーが鳴ることがある。けれど、ちょっと足の位置を変えただけでも、鳴り止む。みんなうまいことやっているものだ。階を指定するボタンは、押したらランプが点くという類ではなく、単なる黒いプラスティックのボタンだから、本当にそこに止まるのかどうかという不安があり、誰もが何度か目的の階のボタンを押す。エレベーターの中には監視カメラが働いており、その様子は1階の乗降口の画面に常に映し出されている。そこにはまた警備員も待機している。
 A座の方も探してみようと思っていたら「ドミトリーで60」という客引きに出会った。6つの二段ベッドが並ぶ部屋には、エアコンも備え付けられており、何と言っても窓からはネイザンロードが見おろせるのがよかった。
 始めは「今日はドミトリーはないからシングルに泊まって、明日移ったらいい」と言われていたが、僕が「明日には出るつもりなんだ」と答えると、あっさりと「オーケー、ドミトリーでいい」と。
 シャワーを浴び、フラフラを体にはたいた。割り当てられたベッドの上段にあぐらをかいて、うちわで扇いでいたら「日本人ですよね」、と話しかけられた。
 深夜特急のドラマを見て旅をしたくなった、と言う有川さん。佐賀大の学生だった。
 時は流れる。もちろん、僕にとっての起点は僕のものだが、それが誰しも同じであるはずはない。
 「とにかく何もわかんないけど、香港に来てみた」
 僕が、夕方頃にヴィクトリアピークに登るつもりだと言うと、一緒にどうかということになった。
 僕は一度、A座の上の階にある旅行代理店へ、昨日頼んだ航空券を引き取りに行った。
 「できるだけ早くバンコクに飛びたいんだけど」「だったら今晩の便はどう?」「いや、さすがに今日着いたばかりだから」
 ということで、明日の午後の券を手に入れた。格安チケットを扱う代理店にしては、意外にも出てきたのはJALだった。事前にメールで調べたバンコクへの格安の相場と比べると多少割高ではあった。それでも、昨日の時点では「バンコクへ行けば……」という思いがあったから、気にしないことにしていた。けど、実際に手にしてしまうと「もう数日いてもよかったかな」という思いがないではなかった。
 3年ぶりにしてようやく目的を果たしてピークトラムに乗ったものの、それは観光客を詰め込んだありきたりのケーブルカーであった。何か特別な交通機関ではないかという期待は外れた。
 ちょうど空の色が、青から黒に変化する様子を眺めることはできたが、人の多さ故かそれほど楽しめなかった。外国人だけではなく、地元のカップルも多かった。
 半島から眺めるビルの夜景の方が圧倒的に僕は好きだ。特に、この時期はそれぞれのビルに香港返還を祝う電飾が、さらに夜の闇に彩りを添えていたから。
 彼と男人街の中の屋台で食事をした後、僕は海の方へ歩いていった。
 夜中を過ぎビルの電気が消えても、数週間前まではイギリス領であった小さな島を、僕は飽きずに眺め続けていた。何も、華々しい明かりだけが夜景ではない。暗い影となったビルも、港を横切る船の小さな明かりも、百万ドルの夜景と呼ぶに相応しい。
 海からの夜風にあたりながら、僕はじっと前を見つめていた。


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