香港回復
「列車は、ただいま上海駅を出発いたしました。香港到着予定時刻は、明日13時10分でございます。何かございましたら、ご遠慮なく乗務員にお申し付け下さいませ。香港までの間、中国の4つの地方を通過いたします。それでは、鉄道の旅をお楽しみ下さい」
出発直後に英語のアナウンスが流れた。さすがだなと思ったのだが、結局これが最初で最後の英語の放送だった。
29時間かかる列車での移動を「長い」とか、「しんどい」とは全く感じない。「まあ飲み水さえあればいいかな。果物でも買っておけば言うことなしだったんだけど」というくらいだ。
さすがに運行が始まってから1ヶ月も経っていないため、車体も車内も清潔であった。白が基調の車体には、窓の幅に沿って青い色が、そしてその下に細く赤い色が塗られている。おせじにもセンスがいいとは言いがたい。むしろデザインとしては、カーキ色にクリーム色の線という普通の列車の方がなんとなくそれらしい。どうもこの特別な車体はおもちゃのように僕の目には映った。
ドアの所には、各車両に一人ずつ、真っ白の制服に身を包み、顔写真の入った名札を付けた乗員がいる。
硬座とは言いながら、ベッドには文句の付けようがなかった。3段ベッドが2組ずつ向かい合った席は、手足を思いきり伸ばすには多少窮屈だが、気になるほどではない。僕のベッドは真ん中の段だった。クリスに「上の方はタバコの煙がこもるよ」と言われていたのだが、全車禁煙ということになっていた。廊下の側には折り畳めるイスが付いていて、そこに座って景色を眺めることもできる。エアコンが入っているのも僕には贅沢に感じられた。ただ、涼しいのは無論歓迎なのだが、空気の乾燥は僕には少しつらかった。どうしても皮膚が乾くと、アトピーのせいでかゆくなってしまうから。
壁に設置された電光掲示板には、現在時刻や速度、次の駅などの情報が中国語と英語とで表示されている。始めの内はふんふんと眺めていたが、もちろんすぐに飽きてしまう。
音楽が無節操にかかる。音量は押さえてあるのだが、たまに耳に入る曲はどれもジャンルがまちまちで、演歌調のものからクラシックまで、それに歌も英語と中国語だ。
途中の駅でプラットフォームの上をワゴンをひいてやってくる物売りも、あまり大したものがなかった。見ているとインスタントラーメンがよく売れているようだった。お湯はと言えば、6つのベッドに対してポットが一つ備えられていた。
一度食堂へ行って、「ビールを」と英語で頼んだ。やけに待たされたのだが、その間見ていると制服姿の乗員がテーブルで輪になって談笑し、タバコをふかしている。もちろんこの車両も禁煙なのだが。
待たされた末に出てきたのは、丼に入った麺だった。「いや、あのビールって言ったんだけど」と、それはそれでうまそうだなと思いながら戸惑いつつ言う。いわゆるウェイトレスの服装(紺色の服にレースのエプロンと髪留め)をした女性は「ピージュウ?」と音を発した。口ヘンに卑という字、それに酒をくっつけた単語がぱっと頭に浮かんだ僕はうなずいた。確か、缶ビールなどにもそんな文字があったと思う。それにしても「beer」という発音を聞き間違えて出てきたその汁そばの本来の発音が気になるところではあるが。
翌日、窓際のイスに腰掛けて梶井基次郎の短編集をめくっていたら「あら、日本の人?」と声をかけられた。
彼女の席は隣の隣のブロックだった。何度かその前も通りかかったが、気付かなかった。カップラーメンをすする彼女は、お兄さんと格安チケットを売る代理店を経営していて、交代で長期の旅行に出るのだと言う。
話しの流れで、香港に着いたら一緒に飲茶に行こうということになった。願ったりかなったりだ。僕の香港再訪の目的の一つに、飲茶を味わうというものもあった。飲茶で出てくるのは小皿の品が中心なのだが、やはり一人で行くよりも、複数であれやこれやと食べられる方がいい。
昼前に着いた常平という駅で出入国手続きを行った。やはり、1国とは言え2制度が存在している。香港の入国?スタンプも、二年前と変わっていない。
もちろんこの駅では全乗客が降りたのだが、その数は上海で荷物のX線検査の列にずらっと並んでいた数の半分くらいに減っていた。おかげで、ぱっと見て分かる外国人旅行者の割合が増大していた。
九龍の駅で多少の香港ドルを手に入れた。もちろん窓口では英語が通じる。正直言って、ほっとした。
バスに乗って尖沙咀(チムシャツォイ)に出た。中心部を南北に貫く彌敦道(ネイザンロード)には見覚えがある。
重慶大厦(チョンキンマンション)という巨大なビルに安宿が密集している。はじめそのビルの入り口付近で寄ってきた客引きは「ドミトリーへ連れていく」
しかし、入ったその宿で、対応した男に「チェックインの前に部屋を見せてほしいんだけど」と至極ありきたりのことを言ったら、突如機嫌を損ねて「お前はいかんヤツだ」と追い返された。
さて自分で探そうかと階段を降りていると、その男が「待った、待った。他にも安い所はあるんだ」としつこく僕を引っ張って行く。いくつもあるエレベーターの一つで最上階へ上ると、何と電車で会った彼女と同じ宿。彼女はシングルがいいと言って、別の客引きについて行っていた。
そしてその客引きが言うには「ここのロビーのベッドなら100ドルでいい」
唖然とした。ロビーとは言え、何のことはない、ドアを開けてすぐ、受け付けのカウンター前のわずかなスペースだ。安全の面でも、それにプライヴァシーの面でも納得がいくはずがない。こちらがそんなことを伝えると「大丈夫」と言って、値段をぐんぐん下げ始めた。結局3泊で100になったが、気に入るはずもなくさっさと外に出た。
階段を下りてなんとなく出くわした、インド人がやっている宿がシングルで120だった。窓のないその部屋には、セミダブルベッドを無理矢理詰め込むだけの空間しかなかった。あとは、つける気にもならないがテレビが一台と、首の振れない扇風機、どこに通じているのかコンクリートの壁に開いた穴には小型の換気扇。
飲茶に行くために彼女と決めた待ち合わせの時間が迫ってくる。とりあえずは一晩だけ、と思ってチェックインした。
だが、チョンキンマンションの1階にあるみやげ物屋の前で30分待っても彼女は現れなかった。
空腹感、寂しさ、諦め。
香港に来たものの、相変わらず気分が乗らない。しかしこのままベッドで寝ていてはいけない、という危機感だけは辛うじて僕の中で生き残っていた。それすら失ってしまったら僕は「沈没」するか、旅をやめるかしかない。
「とにかく、歩こう」
地下鉄で3駅北にある旺角(モンコック)まで歩いた。男人街や女人街は、夕方の光が残る時間なので開店の準備のさなかだった。
プラスティックの容器に細かな蟻が浮かんだ汁そばをかき込んで、屋台でナスとつみれを揚げたものを食べ、目に付いたコンビニにことごとく入って、とにかくビールを流し込んだ。
何時間僕はそうやって歩いていたのか。気付くとネイザンロードにネオンがまばゆい夜が訪れていた。
一軒の飯屋でよく分からない漢字のメニューだが「おすすめ」のようなものを頼んだ。白身の魚にネギとザーサイを散らして蒸したものと、スープとご飯が出てきた。
あちこちで買い食いしたせいで腹が減っているわけではないのだが、持ち込んだビールと共に夕食となった。なんとなく、本当になんとなく僕はその行為をやっていた。
言葉が通じなくて、他のテーブルには地元の人ばかりで、それでも何とか意志を通じさせて飯を食うスリルと感動を忘れている!
その事実に気付いた僕は、さらに打ちのめされた気分になった。けれど、それでもその食事がうまかったことで、僕の気持ちは多少の高ぶりを取り戻したような気がした。
ネオンの洪水の中、再び長い道のりを宿まで戻った。このゲストハウスの門番をしている男に「春にはインドに行った」と言うと、「そうか、そうか。僕はパンジャーブの出身だ」とシャワールームが空くまで少し話しをした。
途中で出の悪くなるシャワーを浴びて、フラフラ(タイで買った粉。濡れ体にぬると清涼感を得られる)をぬった。身体がさっぱりとする。
B座(Bブロック、という程度の意味)5階に発見したネパール料理屋でモモとビール。それにウィスキー(ロキシーがなかった)。ヒマラヤのパノラマ写真や、ネパールのじいさんの写真が壁に貼られている。香港にいながら、ネパールを通じた、その直接ではない刺激が僕をかなり楽しませてくれた。
気分が軽くなった。ネオンの色が心を浮き立たせる。新聞を売りながら卓上のゲームに熱中する男、売れない木彫りのみやげ物を丁寧に並べる男、それぞれの宿の客引き、何だか分からないけれど立っている男。
チョンキンマンションの入り口に腰掛けて、ビールを飲みながらハガキを書いた。香港到着後すぐに出した時「香港ですらおもしろくない」というようなことを書いてしまったから、その訂正を伝えるために。
一体、同じ日付で対極の感情の様子を伝えたその2通は、どのように受けとめられるのだろう。僕は少し微笑んだ。
単純な推察。ひょっとすると、単に空腹だから楽しくなかったのでは。腹がふくれた今、香港の熱気は、確かに僕の心を燃え立たせていた。
サンミゲルの缶ビールを港近くのセブンイレブンで買って、スターフェリーで香港島と半島を往復した。
海の上を吹くなま暖かい風は、甘く心地よく僕の鼻をくすぐった。
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