海を渡り、国を越え
7時半には起きるつもりでいた。目覚まし時計を持たないので、早起きの必要がある時はいつも緊張しながら眠りにつく。そして予定よりも早い時間に、何度か目が覚める。
朝市で、チマキと小さなカスタードパイを4つ調達して、フェリーターミナルへ。
待合い室では、日本に住んでいたことがあるという男が、スマトラだったらブキティンギとパダンがいいと教えてくれた。
国を越える船は、あるいは舟という方が似つかわしいほどに小さなものだった。バックパックなどの大型の荷物は、ぽいぽいと甲板の上の箱に無造作に投げ込まれていく。午前10時20分、快調に出航。
さざ波程度だが、舟が小さいのでその上を跳ねるようにして前進する。わりかしゆっくりした客席にはテレビが備え付けられていた。誰かが歌っていたり、アクション映画があったり、しまいにはマイケルジャクソンがムーンウォークを始めた。
あまりの退屈さに目を閉じていたら、いつの間にか眠っていたようだ。「ハロー」という呼びかけに目覚めたら、1時間が過ぎていた。乗員が、紙パックに入った甘ったるいライチのジュースとバナナの味のケーキを配ってくれた。
「フェリーだと、時間はかかるし、故障して出発延期になることもしょっちゅうだ」と聞いていたが、なんのその。ランカウイIIという名のこの舟は、相当の速度で海をゆく。
3時間半ほどで、あっけなく到着。下船した途端に、カッと暑い。緯度的には大した差もないはずなのだが。
舟から取り出された荷物が地面に積まれていく。自分の青いバックパックをつかんで、入国の列に並ぶ。
「インドネシア入国時に、出国便のチケットが必要」という規則を犯しているわけだから、僕は自分の番になるまで緊張していた。しかし、逆に不審に思われてもいけないと、できるだけ平静を装う努力もした。
船内で記入のすんでいる出入国カードを、パスポートに挟んで審査官に提出する。祈るような気持ちだった。もしもの場合、この国では賄賂も時として有効であるということを聞いていたから、ズボンのポケットにアメリカドルの紙幣をいくらか入れていた。
ポン、という音をたててスタンプが押された。急いでスタンプの日付が今日のものであることを確かめる。大丈夫だ。何のことはない。案ずるより産むが易し、とはこのことか。
メダンの中心部まで、無料のバスが送ってくれた。ベンツの巨大なバスだったが、まるで車内はサウナさながらだった。よく整備された道路の上をバスは走った。人の気配を匂わせない工場地帯を抜けると、ヤシの幹だけが数百本立ち並んだ奇妙な風景に出会った。
スコールが残した巨大な水たまりを避けながら道路に下りると、一人の男が手を引いて彼の車に連れていった。
その感じから、てっきり宿の客引きだと思った。だとしたら送迎の車は無料のはずである。そうは思うもののとりあえずは確かめておく。
答えは「イエス」だった。
しかし、5分も走らない内に、拙い英文を組み立てて「いくら払ってくれる?」「俺はタクシードライバーだ」
「だけど、さっきこの車はただだって言ったじゃないか」
あまり気持ちのいい始まりではなかった。タクシーを飛び降りて、目に付いたベチャ(自転車に座席を取り付けた乗り物)を拾い、値段交渉も手早くすませて、とにもかくにも「安い宿へ」
7人部屋の清潔なドミトリーで6000ルピア。ベチャの運転手は、僕が日本人だと分かると「ドヨウノウシー(土用の丑)」と高らかに言った。誰だ?こんな言葉を教えたのは。
サムイ島から来ているキクという男と会話した。彼は、一月ほど前に酔っぱらってパスポートをなくしてしまい、家族からの送金を待つためにずっとここに滞在していた。年齢は僕とさほど変わらないか、少し上くらいではなかろうか。
手持ちの地図で、このザキアホテルの場所を教えてもらい、ぶらぶらとシシンガマンガラジャという大きな通りを歩く。新聞やタバコなどを置いている小さな店のオヤジに呼び止められた。彼は「飲め、飲め」と売り物のジュースを一本渡してくれた。甘い紅茶のような味がした。
そして彼はよくしゃべった。「日本のことを教えてくれよ」と言われても、一体何をどのように伝えたらいいんだ。戸惑っていると、「ほらインドネシアだとさ、こんなんがあるだろ」と言って手を頭と腰に当てて、腰をくねらせる。ますます僕は戸惑ってしまった。腹の出たオヤジのセクシーなポーズなのか。
彼が紙に「Art」と書いてくれて、僕の頭にはひらめくものがあった。彼が表現したいのは、踊りなのではないか。そう言えばインドネシアの伝統舞踊の朧気なイメージが連想されなくもない。
日本の伝統舞踊で僕はまず能を思い付いたのだが、はてローマ字で「no」と書くべきか、しかしこれだと英語の否定の語のようだから、あるいは「noh」とでもした方がよいのだろうか。面倒だから他の語を探した方が早いかな、と思って僕が書き付けたのは「kabuki」という言葉だった。
すると、オヤジが嬉々として店にいた一人の男の所へ寄っていった。「ほら、おい、見なよ。カブキだよ、カブキ」
なんとそれはもう一人の男が挑戦していた新聞のクロスワードの最後の答えだった。ヒントの所に「日本の伝統芸能」というようなことが書いてあったらしい。しかし別にこれが分かったから賞品が即もらえるというのではなく「これで懸賞金に応募ができる」ということで、二人の中年が小踊りせんばかりに喜んでいるのだった。
宿に戻るとキクが「両替はメダンがいいよ」と言ってきた。彼に連れられて近くの両替商へ。銀行は既に閉まっている時間だった。1ドルが2350との表示があったが、交渉の末2420にまで上げることはできた。それでも、港の銀行の窓口では確か2500だったから、さしてよくはない。
メダンは通過だけで、明日にでもブキッラワンへ移動しようと思っていた。するとキクが「ブキッラワンなら、宿に蚊帳がないから絶対にここで買っておいた方がいい」と言って、近くのスーパーへ行くことになった。
「俺はマラリアになったことがあるんだ。だから蚊には気を付けた方がいいよ」
ほとんど何も知らないこの国、この街で、彼のように色々と教えてくれるのはとてもありがたい。けれど、どうしても僕の心の奥底では初対面の彼に対する不安が拭いきれずにいた。しかし、この判断力は捨てるわけにもいかないのかもしれない。どうしたって、最後の最後には自分に責任が降ってくるからだ。何かが起こってから「いい人だと思ったんだけど」と言っても、それは後の祭りである。
サテーと、餅のようなものをバナナの葉にくるんでもらって持ち帰る。キクがインドネシア語を教えてもらっているという宿の近くの一軒の店で、ビールを頼んで乾杯。ビンタンビールという名前だった。なるほどその名の通り、ラベルには星が印刷されていた。
実は、僕がサテーを食べようと思い立ったのは一年前に遡る。マレーシアで食い損ね、頼みの綱だったシンガポールのサテークラブというホーカーズセンターがあるはずの土地では、フェンスに囲まれそして工事が行われていた。ようやく昨夏の思いを果たすことができた。
「君も旅人だし、俺も旅人だろ」と言うキクと、太さもまちまちな串にさされた小さな鳥肉を甘いピーナツソースにからめて食べる。餅のようなものは、おそらくこれも長粒米から作られているからなのだろうが、粘りけがなかった。これにも同じタレをつけて食べるが、味はともかくとして、腹にたまる。
彼にブキッラワンの宿の情報を教えてもらった。宿の名前を歩き方のページの余白に記してもらった。
朝に軽くつまんで、その次に食べたのがこのサテーだった。これだけでは少々物足りなかったので、近くにある屋台を教えてもらった。けれど最後の最後になって、彼の口から意外な、もしかしたら予想の範疇にあったかも知れない、言葉が飛び出した。「10リンギット貸してもらえないかな」
「絶対返すよ」と彼は言うが、「旅をしている時は、何もかもが不確かだから」と僕は、曖昧な表情で断った。
彼が一足先に戻った後、僕は屋台でミーゴレンを食べた。やきそばの上に、目玉焼きとクルッ(かきもちのようなさくさくしたえびせん)が乗り、トマトとキュウリ(日本のものよりもずっと太い)のサラダもついていた。熱々だ。これでなくては。
屋台の薄明かりの元で、フォークとスプーンを使ってかき込みながら、ゼミの教官の言葉を思い出して一人にやついた。彼はインドネシアの農業に詳しく、「粟津君、絶対に屋台で食べちゃためだよ。お腹こわすから」と、親切なアドヴァイスをいただいたのだった。
「いくら?」と歩き方の巻末の会話集を見ながら尋ねてみたものの、数字を覚えていないことには、店員の言ったことが皆目分かるはずもない。けれど、とにかくこれが、インドネシア語の最初の一歩だった。
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