川沿いの町
大部屋に備え付けられていたのは、部屋全体の空気をかき回すファンではなく、首振りの扇風機だった。しかも2つだけ。僕のベッドは一番奥にあったから、まったくその風を浴びることができなかった。
メダンに着いてすぐは、スコールの直後だったせいもあってそれほど暑いとは思わなかったのだが、夜中はひどかった。あまり眠ることもかなわなかった。
通りでミニバスを拾う。ミニバス、という乗り物は説明が難しい。国によって、あるいは都市によってもその意味が多少変化するからだ。基本的にはその名の通り、小さい。けれどここメダンのように10人も乗れないようなものから、マイクロバス、あるいは大型の一歩手前のバスまである。タクシーやベチャよりずっと安くて、短距離を移動するには便利だ。乗りたい時は手を挙げ、下りたいときは天井のブザーで知らせるか、あるいは直接声をかける。料金は距離による。車掌に相当する人が行き先を連呼したり、道端の乗客を発見して運転手に知らせたり、あるいは精算をしたり。しかしそれほど大きい車ならともかく、これは何だか無駄な労働力ではないかと思わないでもなかった。
ピナンバリスバスターミナル前で降りて中へ入っていく。入り口の所で100ルピアを入場料として徴収された。ホンマか?という疑いはあったが、係員は胸にそれらしい名札を付けているし、引き替えに渡されたチケットもなんだかそれっぽい。よく分からない。
放っておいてもすぐに周りに人がやってくる。
「どこ行くんだ?」「ブキッラワン」
「だったら、あっちの列のバスだよ」
別に彼らのバスの行き先でなくても、親切に乗るべきバスを教えてくれた。
「今、何時だ」運転手が尋ねる。すると近くにいた客の一人が、腕時計を示しながら「10時だよ」と。すると、運転手がそろそろ行くかというようにエンジンを始動させる。
座席はがらがらに空いていたから、楽に移動できるなと思っていたのも束の間。ターミナルを出てすぐに、車掌の「ブキッラワン、ブキッラワン」と連呼する声に応じて、道端に集まっている人が乗り込んできた。なるほど、こうやってターミナルの外で目的のバスを待っていれば入場料を払う必要がないのか。僕はそのしたたかな考えにいたく感心し、また同時に先ほどの入場料が不法なものではないことを知った。
バスの内装は相変わらず派手で、フロントグラスの上部はきらびやかなカーテンや、金色の紙などで飾られていた。もちろん音楽はけたたましい。内装はおせじにもきれいなものとは言いがたいが、音響の設備は悪くないものだった。
徐々に道幅はせばまり、人家は緑の合間に時たま顔を出す程度になってきた。2時間半ほど経って、乗り込んできた男に1000ルピアの入村料を支払った。
バスを降りるた場所はほんのわずかな空き地だった。いくつかの店が辺りに見えたが、宿らしきものはない。とりあえず細い一本道を進むしかなかった。地図はないが、おそらく幅2メートルもないこの土の道が村の中心部へ通じているのだろう。
ぱっと視界が開けると、そこには川が流れていた。川幅は20メートルほどだろうか。そして河原には石がごろごろしている。歩いてきた道と対岸とを何本かの端が結んでいる。
キクに聞いてきたユースマンゲストハウスはその最初の橋を渡った所だった。どうやら、それぞれの橋はそれぞれの宿へ通じているみたいだ。
3000ルピアでダブルの部屋。メダンではドミで6000だったから、物価の安さが実感される。壁はヤシの葉で編まれていた。寝苦しい昨夜を思い出して「ファンが、ないんだけど?」と尋ねてみたものの「涼しいからいらない」というのが返事だった。キクが熱心に「蚊帳を買え」と言っていたけど、ちゃんとベッドの上にあった。
裸の子ども達が橋から飛び込んだり、旅行者が大きな岩の上で肌を焼いたりしている。それを横目に、吹き抜けになっている一階の食堂のテーブルについて、インドネシアの印象を友人に伝えるべく、絵はがきをしたためた。できることなら、訪れた全ての街から自分の存在を伝えたかったのだが、メダンではそんな暇もなかった。
体を焼こうと思い、水着に着替えて川へ。小さな子どもたちにならって、僕も岩の上から飛び込んでみる。エイと飛び込んだ次の瞬間、ドキリとするほど冷たい水が全身を包み、そして体が浮かび上がっていった。北スマトラ大学の学生、という人なつっこい表情の男と、川の中で出会った。時折、自動車のタイヤのチューブに乗って上流から流れてくる人がいた。チュービングと言って、川のほとりのあちこちの店で借りることができる。これはおもしろそうだ。
出発の時から履いていたビーチサンダルの鼻緒が切れたので、宿の向かいの売店で新しく買った。そこのおばちゃんはユースマンの主の姪だった。「ユースマンだったら4500だけど、うちだったら4000でビンタン売ってあげるよ」というありがたい申し出をいただいた。
ブキッラワンは、ボホロク川に沿って宿とみやげ物屋、雑貨屋、それに食べ物屋が並んでいる細長い町だ。観光地ではあるが、とても気持ちがいいから数日ここでのんびりしよう。物価は、メダンと比べるとかなり安い。
夕方、散歩をしていたら「ケイ?」と、かわいい女の子に声をかけられて、驚いた。けれど、彼女の隣に先ほどの北スマトラ大生がニコニコと立っていて、話しを引き継いだ。「僕が名前を教えたんだ。どう、よかったらドゥリアン食べない」
手をベトベトにしながら、臭い黄色の脂肪のかたまりのような果物をご馳走になった。ドロリと甘い。その匂いも僕は別に嫌いではない。そして好きでもない。一般には忌み嫌うか虜になってしまうかのどちらかだと言われるが、僕には当てはまらない。あれば食べるけど、自分から高いお金を出してまで食べようとは思わない、そんな程度のものである。
彼はある程度英語を話したが、そのそばにいる二人の女性(声をかけた人と、彼女の双子の妹あるいは姉)は恥ずかしがっているのか、あれこれ言いたそうなそぶりを隠せないでいるものの、彼を介して会話した。
「ありがとう」と言って別れた後、彼女ら二人の顔や声を心の中で反芻していたら、またしても後悔がおそってきた。しまった、写真撮っておけばよかったんだ。
バックパックに、親亀、子亀のようにくくりつけることのできる手頃なザックが付属していて、本来ならばそれを肩にしているところなのだが、バンコクでチャックが外れてしまい、にっちもさっちもいかなくなってしまった。仕方なく、今回の旅行中だけもてばいいや、とずた袋のようなものを一つ買って、それにいくつかの物を入れて持ち歩いていた。カメラは、僕の持ち物の中で最も高価な物だから、目を離したくないとし、いつなんどき何に出くわすかが分からないから、いつでもフィルムに収められるようにするため持ち歩く。同じような理由で、日記とペンも常にその袋に入れている。仮に盗まれたなら、最も悔しいのはこの日記帳であることは間違いない。
写真はあまり撮らない、自分の目でしかと見るから、という人も多い。反対に僕は、ちょっとでも心ひかれたものはシャッターを切るようにしている。後から、できるだけ具体的に旅の様子を思い出すのに大いに役立つからだ。
約束通り、暗くなってから先ほどの店へ行って、ビールを一本飲んだ。ドゥリアンとアルコールは、時として命に関わるほどの食い合わせだと言うが、食べてから3時間もたったから、別段何も変わったことは起こらなかった。一度、どれほど危ないのかを確かめるためにドゥリアンに直接お酒をかけたらどうなるかという実験をしようと思っていて、結局やらずじまいだった。
ホームページ