矢印の先

 「ここに地終わり海始まる」という宮本輝の小説がある。その内容ではなく、ユーラシアの突端ロカ岬に「ここに地終わり、海始まる」と書かれた碑があるということで感銘を受けた。
 そういえば「深夜特急」でも沢木がその場所を訪れていたはずなのだが、その記憶はほとんどない。高校時代に一息に読んだ時、香港やマカオのエピソードほど、ヨーロッパは強烈に迫ってこなかったのだ。
 考えてみれば、沢木の経路を追うことで「深夜特急」の興奮を自分のものにしたいというのが旅の発端だった。もちろん、単なる追体験に終始するものではない。過程で、僕は僕だけの経験をし、多少なりとも自身が成長したのではないかという手応えをも得てきた。同時に、全く変わらない自己があるということも、往々にして苦さを伴って、再発見してきた。
 ただし、自己発見やら省察やらを目標として旅に出るわけではない。付随的というのには少々大きすぎるものの、わざわざそれだけのために何事かをなすにはあまりに当たり前すぎる行為だからだ。自分の考え方や行動を、可能な限り客観的な立場との比較を交えながら検証して蓄積することは、多かれ少なかれ日常と呼んでかまわないだろう。
 僕を旅へと導く奔流にあえて名前をつけるならば「好奇心」となる。二次的な情報としてではなく、実際を見ることへの興味だ。
 そして今回、好奇心が目指したのはロカ岬であった。西へ向かう矢印の終点に立とうと思った。「きっかけ」としてはそれだけだ。ロカ岬に碑があることを知った、見てみたいと思った、だから旅に出る。とても簡潔だ。
 ただし、「なぜ、それを見てみたいという具合に好奇心がはたらくのか」と問われたら、今の僕は返す言葉を持たない。しかし「そう思うのだから仕方がない」と開き直ることもできない。一時は「旅に出るのは楽しいからだ」で理論的な帰結を得たような気になっていたが、次第にそこにも疑問を抱き、解きたいと思うようになってきた。これは今後の課題である。
 旅の途上、「ここに地終わり、海始まる」と記された碑は、それが示す通り僕にとっても一つの区切りになるのではないかと漠然と考えることがあった。
 始まった以上、結末は必ず訪れる。永遠の夏休みは存在しない。僕の学生生活の区切り、その中にあった旅の区切り。そんなものが欲しいわけではないが、避けることもできない。ロカ岬に立つことで、目に見える形での結論か、少なくとも今後を見据えるための位置確認になるのではないかと思った。
 加えて、これはどこから仕入れた知識が判然としないのだが、トルコは魅力的な国であろうといつのころからか考えていた。一年半前にはすでに、カトマンドゥの路地でチャイを飲みながら、トルコを訪れたいという意志を表明していた。
 タイ航空を利用して、トルコ経由でユーラシアの果てへというのが今回の計画になった。直行便でないのは、単にタイにも寄りたいという理由からである。ところが調べてみたところ、タイ航空にはトルコへの便がない。最も近い所で、アテネという街を今回の出発点に選んだ。帰路はマドリードからとなった。これもリスボンからの便がなかったからだ。
 出発は7月半ば、内定者懇談会に出席した後。帰国は9月の末で、これは10月1日の内定式に合わせたものである。これがなければ、それぞれ前後半月は長い日程がとれたが、これとて大学の都合に合わせたものにすぎない。食べていくためには、何の能力や技術(換金性のある)もない僕としては、とりあえずは会社員として働くことが一つの道であり、それを選択した以上は義務や責任を果たすべきであるからだ。
 蛇足ながら、タイでの経験は少なくともここに記すつもりはない。それは当初からリゾート的な旅として予定し、実際にもサムイ島でダイビングのライセンスを取得したり、レストランでロブスターを食べたりといった生活で、僕が旅行記として書きたいと考えている流れにはあまりそぐわないと判断するからだ。


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