一人・友達
今頃昨日のバディは北部の山地にいるのか、と僕は再びの海抜ゼロメートルで想像する。
今日僕と一緒に潜ることになったのはスイス人の爺さんだった。「一人なんですか?」と問うと、「妻は潜らないからビーチにいるんだよ」との答え。ダイビング好きで、プーケットにも既に何度か来たことがあるという。
年齢を重ねてからもこのように自分の好きなことをしていられるというのは憧れを覚える。数十年先の自分を想像して彼の姿に重ねてみたとき、ほんの少しだけそこに付け足してみたいと思った。できれば、僕と同じように歳月を経てきた相手と共に熱帯の海に潜っている情景を。
今日向かった先はピーピー島。もちろん潜るために訪れたので上陸するわけではないが、その内にたっぷりの時間をまとって滞在してみたい土地の一つだ。
本日一本目のエントリー時、デジカメのストラップがレギュレーターのチューブに絡まってしまい、それをほどくのに気を取られ、ふと気付くと目の前に岩壁が迫っていて少し怖い思いをした。もちろん、それが単なる岩だけでも危ないのだが、そこには針を持った生き物だってへばりついているのだ。少々気が緩んで注意力が散漫になっていたようだ。
さらにすいすいと泳ぎ過ぎて、インストラクターを過ぎてしまったことに僕は気付かなかった。バディからの合図でようやく気づくと、確かに僕らしかいない。あまりよくない状況だったけど、老人ととりあえずは若者の僕とだけだったら僕が動くべきだった。岩礁に沿って進んできただけだから、これまでは右手に見ていた岩を今度は左手に見ながら逆行すればコースをたどれる。彼にちょっと待ってもらって後続の様子を見に行くことにする。よく考えたら、バディと離れるというこの行為自体が基本的なルールに反しているのだが、その時には気が回らなかった。運良くさほども行かない内にグループの一行の姿があった。
海から上がり、昼食のために船が着いた場所は、これまで僕が見たどんな海の風景よりも美しい場所だった。水深自体はさしてない、青と緑が柔らかく交わった海から小さな山のような岩が突きだし、そこかしこに緑がへばりついている。その景観を見るためか、ダイビング目的ではない観光のための小さなボートもいくつか目にした。あっけらかんとした光をたたえた水色の空に、静かに岩山が立ち並ぶ。砂浜も何もなく、ただ大きな岩が生えていて、そして海があるのだ。海面からはそこかしこを泳ぐ魚の姿が手に取るようにわかる。
おとといから始まったどちらかと言うと慌ただしい道のりの結果、アンダマン海のふとした静かな場所にいる自分だが、その美しさの故に心の緊張が解きほぐされ心身が楽になる様を手に取るように感じとれた。
悲しいかなこの情景をデジカメに納めたのだが、ダイビングのためのプロテクタをつけたままにしていて、そして僕はそのレンズの部分の水滴を取ることを完全に失念していたので、絵葉書のように美しい風景を写したはずのそれは、ほんのわずかな水滴によって画面のいくつかの部分が歪んでぼやけた画像しか手元に残すことはできなかった。
アジア人らしい、けれど決して日本人ではない女性が我々のボートのメンバーの一人にいた。つるりとした小柄な身体に水色のビキニをまとっていた。年齢は僕より少し若いというくらいか。少し太めの縁の眼鏡は両端がわずかにつんと上がっている、東・東南アジアでよく見かける感じのデザインだった。髪の毛は後ろでぐいっと一つにまとめていたが、すごく素直に切りそろえられているために、ある程度の幼さ、あるいは垢抜けなさを漂わせていた。他の多くの人とは違い、彼女も僕らと同じように一人で来ている様子だった。
と、なれば同じ一人旅どうし、話しかけないわけにはいかないではないか。もともと彼女の姿は港に運ばれる車にいる時から感知していたのだが、なかなかすぐに話しかけるきっかけと言葉が見つからない。アイスブレイキングは本当に難しいな、と思うと同時に、単に僕が引っ込み思案なだけかとも。
色々と躊躇をして言葉を選んだつもりだけど、結果的にようやく昼食時にデッキで彼女に向けて発した言葉はすごく陳腐なものだった。「どこから来たの? なんとなく韓国かなって思うんだけど」
この単純な問いへの返答を僕は間抜けにも3、4回聞き返した。予想からかなり外れていたというのもあり、彼女がその単語を発話するスピードを落とさなかったこととで。
答えは「シンガポール」だった。法律事務所で働いており、そこのいわば慰安旅行でプーケットへ来たということだった。マレーシアのどこぞの島で以前ダイビングのライセンスをとった彼女は、職場の人たちから離れしばし水面下の世界をのぞきに来たのだ。「でも、今夜はそのオフィスの人たちと食事をしなきゃいけないんだけどね」と、そのことを面倒くさそうなそぶりで教えてくれた。
「一日15時間も働いていると、本当に疲れてしまうわ。日本人もそうなんでしょ?」と共感を求めてきたが、残念ながら僕個人としてはそれについてはむにゃむにゃと言葉を濁さざるをえなかった。
彼女とそういった通り一遍の話しを、それでも愉快にのんきに、続けながら僕は意外なことを思った。「恋に落ちる、というのは実はカンタンなことであるかもしれない」。あくまで一般論としてであり、僕が彼女にそういう感情を抱いた、という意味ではない。でも、そういうこともあるのだろうな、という感情をすごく切実に胸の内に抱いたのだ。
二本目のダイブでは、なんだかハリセンボンの仲間のような魚をよく目撃した。直方体にヒレがついてほよほよと泳いでいるようなそれが、なかなかに見ているだけで愛嬌がある。二匹が並んで泳いでいたが、つがいなのだろうか。あまり泳いでいる姿を見かけたことがないが、イカの群も終了間際に見かけた。半透明の身体で結構すばしこそうに群をなしていた。
のんびりと港へ戻る船の上。かすんだ空を夕暮れが包む。海に沈む太陽を眺めやりながら矛盾を抱く。寂寞と同時に安心感。今回のダイビングは全て終わり、旅行も終焉に近づいている。けれども、この国の空気を呼吸し、スイス人の爺さんととシンガポール人の法律事務所で働く若い女性と、その他の国の人たちと言葉を交わした海の上にいる自分はしかるべき所にしかるべき形で存在している安心感があるのだ。
シンガポーリアンとはホテルがあるビーチが違うから乗り込む車も違った。挨拶することもなく、砂浜から上がりそれぞれの車に乗り込み出発した。スイスの彼とはダイブショップまでは一緒だった。「じゃあ」と片手を上げて別れる。
宿に戻り、部屋に戻る前にプールに飛び込んで(実際に、飛び込みなんぞできる僕ではない。プールサイドからそろそろと水の中におりただけだ)、全身の塩を落とす。カタとカロンを結ぶ道沿いにあるレストランに入って、ジョッキを傾けながら「エビのタマリンドソース」という一皿を頼んだ。一人で食べるにはこの一皿で十分。ソテーされたエビが十匹近く、どろっとした甘酸っぱいソースに並んでいた。
一人が独りであることを感じるのは例えばこういった食事時がそうだ。複数いればメニューを分け合うこともできるが、自分一人ではいかんともしがたい。先ほどのスイス人のバディはビーチで過ごしていた奥さんと再会しているだろうし、シンガポーリアンの彼女は気が乗らないまでも会社の人たちと食卓を囲んでいるのだろう。
元来た道を歩みながら、宿を通り越して坂の下へ。昨夜も来ていたのだが、オープンエアのバーが数軒並んでいる所へ。ミュージックビデオや、衛星から降ってくるどこかのラグビーの中継を流しているテレビが並んでいたり、あるいはビリヤード台が置かれている。
昨日と同じ一軒へ。もちろん「明日も来るよ」とは言ってあったのだが、笑顔で迎え入れられる。
なんだか店の人たちと、あるいはその友達だろうか、食事を初めて「一緒に食べようよ」みたいなことを言われたので、保温用の筒に入れられたシンハの小瓶を傾けながら、彼女たちの皿から少しずつつまみ食いさせてもらう。
こういう時にシンプルに威力を発揮するのがまたデジカメのよいところでもある。適当にぱしゃぱしゃと撮ったり撮られたりしながら、すぐにその場で見てもらうことができる。僕としてはとりあえず陽気に会話が弾むことが純粋に楽しかった。それを成り立たせているのは僕の拙いタイ語と彼女らの拙い英語であったとしても。明日はもうダイビングはないから、酔っぱらっても問題はない。熱帯の空の下、だらだらとビールを飲む。
そう言えば、そのバーの名は「フレンズ・バー」と言った。
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