ボウモアの街のボウモア蒸留所でボウモアを飲む

 相変わらず目覚ましどころか時計すらを持たないから、たまに早起きをしなくてはいけないときには少しだけ困る。ヒースローからグラスゴーへ飛ぶ便が6時40分発とかなり早いので、逆算していくと朝の4時過ぎには起きる必要がある。いい加減、時計を買おうかという選択肢も含めて考えてみた結果、iMacが利用できることに気付いた。プレインストールされているiTunesの曲のデータを、QuickTimeで演奏させたままスリープさせる。あらかじめ、目覚ましの時刻をスリープの解除時刻として設定しておくのだ。最初はiTunesでスリープさせて解除すればよいと思ったのだが、スリープさせてしまうと一時停止の状態になってしまい解除されても再生しないことからの苦肉の策だった。
 4時20分起床。昨夜、後藤とヴィクトリア駅で別れたときに地下鉄の始発を調べたのだが、なんと5時半にならないと動き出さない。これでは無理だというので、せっかくパブで飲んで後は寝るだけというはずだったのに、空港行きの交通手段を模索する必要に迫られた。次の可能性はバス。幸い、宿がヴィクトリアコーチステーションというバスターミナルのすぐ近くだったため、その足で立ち寄る。ひっきりなしにバスが発着し、大きな荷物を持った旅人がごろごろしているけれど、肝腎の空港行きの始発は7時半とどうにもならない。
 パディントン駅まで出てしまえばよいのだが、そこまでタクシーというのももったいない。何かないものだろうかと、あまりはっきりしない頭をひねった。
 市バスはどうだろう。ロンドンのバスは、ナイトバスというシステムがあり、日中とは路線が違うものもあり、もちろん頻度は格段に低いが、夜間でもきっちりと走り続けている。せっかく宿のそばまで戻ったのに、また駅の方へ引き返してバス停を探す。と、ようやくあった、あった。5時にヴィクトリア駅発。これでぎりぎりくらいだ。
 目的のバスに乗り込み、パディントン駅というバス停の文字を読みとって下車。辺りは真っ暗で、しかも霧が立ちこめ始めている。どちらを向けば駅なのかすら分からない。幸い通りかかった人に教えてもらう。すぐそこだった。
 チェックインをして狙い通りのヒースローエクスプレスに乗り込む。設置された液晶モニタからは、なんとBBCニュースのヒースローエクスプレスエディションが流されていた。もちろん、内容はアフガニスタン情勢。
 空港で待っているころに、ようやくと朝が来た。だが、霧は一層濃い。ブリティッシュミッドランド機は滑走路へ向かって動き出したものの、窓の外は白一色のために、異なる世界へ入り込んでしまったような錯覚すら覚える。離陸の順番を待っているらしいが、どこにどんな機体が並んでいるかすら視認できない。霧のロンドンエアポート、である。
 交通事故を起こしやしないかという杞憂をよそに、離陸。地上を離れるとすぐに霧の層を抜けた。ロンドン自体がすっぽりと厚く白い霧に覆われていた。そして雲を二層抜けると、まばゆい朝の新鮮な青空がお目見えする。
 グラスゴー到着。機内預けにしておいた荷物を引き取って、すぐに乗り継ぎのチェックインの列に並ぶ。ところが、他のカウンターはがらがらなのに、ブリティッシュエアウェイズの前にだけ延々と列ができていた。余裕を持ったはずだったのだが、列が前進するペースを見ていると、結構ぎりぎりになりそうだ。
 僕より遅い便で来る後藤はどうだろう、と少し心配になった。その心配をさらに加速させるように「到着」の表示の中で、彼の便は遅延していた。到着は8時57分と変更されていた。アイラ行きの便の出発は9時10分である。これは、あまり現実的な時間ではなさそうだ。
 しかし午前便を逃しても、また夕方の便があるのでそちらで来るのではないかと思った。ま、そういうこともあるだろう。
 カウンターから係員が声を上げていたが、ロンドン発の便は悪天候のために遅れが出ているのだそうだ。先ほどの霧がより一層密度を増しているのであろう。
 僕のチェックインは、結局列の先頭まで進むことなく9時10分の便の方は先にどうぞというアナウンスがかかり、手続きをしてもらった。

アイラへ飛ぶプロペラ機
 滑走路で待っていたのは小さな、小さなプロペラ機だった。30席ほどあるが、実際に搭乗している乗客は10人程度。もしかしたら、後藤が滑走路を走ってぎりぎりに駆け込んで来るかと思ったけれど、彼の姿を見ることなく飛行機は定刻にアイラ島へ向けて離陸した。
 思ったほどは揺れないが、逆に思った以上に高度を飛んでいる。天気は悪くないので、眼下の風景が田園地帯から海へと変わったのが霞む雲の向こうに見下ろすことができた。
 到着したアイラ空港の滑走路を囲うフェンスには各蒸留所の宣伝の横断幕が貼られていて気分が盛り上がる。やはり空気は冷たい。それもそうだろう、大西洋に浮かぶこの小さな島はアイルランドよりも北に位置し、冬季オリンピックが開催されたカルガリーよりも高緯度にあり、地図上を真東にたどるとモスクワにぶつかるくらいなのだから。だけどもちろん、中学校の社会科で習ったように、北大西洋海流(メキシコ湾流)が温かな水を運んでくるおかげで、そこまでは寒くはない。長袖シャツにジャケットを羽織った程度で問題がない。
顔の黒い羊
 大多数は自分の車や迎えの車に乗っていった。係員にボウモアへ出るバスについて訊ねたら、「ロイヤルメイル」と書かれた赤いバンに乗るように説明された。もちろん、手紙の集荷配達用のものだ。飛行機から下ろした郵袋と共に車に積まれ、もう一人の乗客も乗り込んで一本道を突っ切る。畠にすら使われていない少しの起伏の草原を結構なスピードでロイヤルメイルバスは走る。暗い緑に、顔の真っ黒の羊や馬が点在している。人家はごくごく稀に少しだけ現れる。
ボウモア蒸留所
 車を降りたボウモアには、すぐ左手に風景の一つとしてボウモア蒸留所が建っている。そして星条旗の半旗が風にはためいている。
 チェックインしたホテルで「予約はお二人と伺っておりますが……」と言われた。当然と言えば当然だろう。本来は二人で来るはずなのだが、事情を説明し夕方の便ではやって来るだろうことを伝える。
 ホテルというだけあって、部屋は広く明るく清潔で、バスルームもぴかぴかしている。だけど、快適なホテルライフよりも何よりも、パソコン他装備の一式を取り出しインターネットへの接続を試みる。
 電話自体はつながるのだが、どうも番号に問題があるらしく何度か試行したがつながらなかった。国際電話で日本のアクセスポイントにかけてみるが、つながることにはつながるのだが、雑音が多くて接続が確立されなかった。
 まずアイラ島に着いたら後藤と共にラフロイグ蒸留所を見学するつもりにして予約もとっていたのだが、彼がいないと仕方がないので、電話をかけて明日の午前に変更する。その代わりに、特に予約の必要のないボウモアのツアーに参加する。ツアーと言っても、僕一人だけだった。
 売店もなかなか充実しており、ポスターやシャツなどの各種グッズや酒瓶がきちんと明るい店内に陳列されていた。
 ウィスキーの蒸留の過程というのは、なんとなく知っているので、むしろそれを実地に目の当たりにするということがうれしい。美しいお姉さんが案内をしてくれる。麦を発芽させて麦芽にするために、ボウモアは伝統的なフロアモルティングという手法を続けている。ぶっちゃけた話し、だだっ広い床に麦をまいて発芽させるのである。だが、その際に熱が発生するので温度を監視しながら鍬でときどきひっくり返さなくてはならない。
ポットスティル
 そして発芽を止めるために煙で燻される。この燃料がアイラ島の地質を作る重要なピートであり、じっくりと海の香りが染み込んだそれを燃やすことで、麦芽にアイラの香りが与えられる。それを砕いて湯に混ぜて粥のようにし、酵母を加える。ここまではビールの作り方と概ね似ている。だが、ウィスキーは蒸留酒である。そうしてできたアルコール成分を含んだ液体を蒸留する。そこで得られた透明な液体をアメリカのバーボンなどの樽に詰め、じっくりと海の音を聞かせながら熟成させるのだ。
女王来訪記念の樽
 貯蔵庫にはエリザベス女王の来訪を記念して1980年に仕込まれた樽も並んでいた。
 もちろん、最後には試飲が待っている。グラスに注がれたそれをゆっくりと尊敬を込めて匂いを嗅ぎ、口に含む。ボウモアにしては軽い感じでスムーズな気がした。でも、聞いてみたらよく見かける12年のものだった。
 早朝に軽い機内食を食べただけだから空きっ腹だというのもあるが、飲み心地が極めてよい。日本で飲むときの「これぞアイラ」と刺激を楽しみながらというのとはちょっと違う。
 旅で発見することの一つに、その土地での必然性、自然性というものがある。最初にそれを強く感じたのは、インドのヴァラナシで火葬を見物したときだった。死体を燃やすということは、彼らにとってみれば日常であり、そして焼かれる人にとっては聖河ガンガーに還ることのできる喜びなのである、おそらくは。だから僕が勝手にふくらませていた想像と期待はインドの熱く静かな空気に霧散した。
 ボウモアでボウモアを飲むというのもそれに通じるのだと思う。旅をする理由の一つは、この必然性に身を置くことだ。それは、世界でただ一カ所、その場でしか得ることができない。
 広いフロアには酒を味わう僕と、部屋の隅に設置されたピアノの調律を続ける男性との二人だった。窓から灰色の海を見下ろして、思いに耽りながら試飲の一杯を大切に味わい、僕にはまったく理解のできない仕事を黙々と続ける人が時折ピアノを鳴らしている。彼は仕事を終え、僕に会釈をして部屋を後にした。
 見学者のサイン帳があり、もしかして村上春樹の名が見つからないものかと思ったが、ない。まあ、ないのだろう。日本人の記入も結構数があるが、その中で特に目立つのがサントリーの人たちだった。ボウモアの所有者は日本のサントリーなのである。だから、旅行客が自分の足跡を残すべきこの一冊に、研修という仕事で来た彼らが自分の部署名を記したり、名前を書いていくことは恥ずべき無粋である。
 基本的にはバーボンの樽で熟成をさせるのだが、最後に数年間別の樽で寝かせる種類がある。例えばシェリー樽だったり、ポートワインだったり。僕はボウモアのクラレットと呼ばれる、赤ワインの樽で仕上げたものが好きだった。ウィスキーなのだけど、赤ワインの渋さが余韻に加味されていてボウモア特有の潮の香りとその舌にそっとざらつく渋味との取り合わせがよかった。だが、売店にはそれは並んでいない。もう作っていないのだそうだ。
海からのボウモア蒸留所
 ボウモアの街を一巡りする。手作りで石を積み上げたような小さな湾に小さな船が数隻並んでいる。海岸には細切りの昆布のようにも見える海藻が堆積している(そのまま薄味で炊いたらおいしそうだ)。そして何より、上空にはカモメが舞っている。風に流されているだけかもしれない。ボウモアの酒瓶のラベルにはカモメが描かれているが、まさにその情景だ。
 そこから続く緩い坂道がボウモアのメインストリート。100メートルほど先には教会が建つ。でも人はあまり見かけない。
 他に何かあるかと思ったが、とりたてて何もない。
 昼食を食べに入った店では、マッシュルームスープが熱々で、少ししょっぱかったが、茸の味がどっしりしていてよかった。
 コンビニのような、雑貨屋のような店で缶ビール三本。ここまで来ると、アイリッシュスタウトと書かれたものも並んでいる。部屋に戻って、いそいそとフォートナム&メイソンで仕入れたカレーピーナツの封を切ったのだが、非常にまずいものだった。目論みを外してしまったが、ビールを次々に開けて次第に気持ちよくなる。
 iBookをぱたぱたいじったり、合間にビールを飲んだり。本当に静かなアイラ島のスタートだ。
 後藤がなかなか来ないことについて、いくつかの推論が頭をめぐる。一番ひどいのは交通事故か何かに遭ったのではないかというもの。あるいは、霧で飛行機が遅れてグラスゴーで予定の便に乗れなかったのでつむじを曲げてロンドンに戻ってしまった。あるいは、単純に寝倒したということも考えられる。
 でもいずれのトラブルにせよ、生きている以上は何かしらの手段でここに現れるか、もしくはそれが叶わない状況であれば連絡くらいは入るだろうと思っていた。ただ、明日の便になるようだったら、今晩のツインの部屋代がもったいななどと現実的なせこいことも思い浮かんだ。
 いい具合にビールが回り、本格的に昼寝をしようとベッドに横になってうつらうつらしていたら、枕元の電話が鳴った。
 「ジェントルマンがお見えですので、階下へ起こしいただけますか」
 ジェントルマンに知り合いなんかいないから、もしかしたら後藤に関する不幸な知らせが警察や大使館員によって運ばれてきたのだろうかと、しゃきっとしない頭で考えた。
 フロントの前で長身をさらしていたのは、後藤本人だった。しかもよく見ると小さな手荷物一つしか携えていない。
 まあまあ会えてよかった、ととりあえず先ほどビールと一緒に買っておいたブナハーブンとブルイックラディの小瓶を開けて乾杯。
 彼の話によると、そもそもはやはりロンドンを寝倒したのだそうだ。悪天候に関わらず、彼は僕がグラスゴーで心配していたあの時間にはまだロンドンにいたのだった。仕方なしにグラスゴーへの遅い便に変更して、そして乗り継いでやって来た。ただし、その途中で機内預けにした荷物はグラスゴーに置かれたまま。乗り継ぎ時間が短く、間に合わなかったみたいだ。
 着替え類などの大切なものがそちらに。一方、小さな鞄に入っているのはパソコンやデジカメなどのすぐには必要のないものだというのは、彼にとっては皮肉なことだが、僕にとってはおかしい。
 いい時間なので、さっそく夕食をとりに下のレストランへ。生ガキを食べ、ビールを飲み、軽く薫製された鱈のソテーをメインに選ぶ。島で食べる海産物は文句無しにうまい。それに火が通りすぎていることもない。
 すぐ隣のバーのカウンターにはアイラのシングルモルトがずらりと並んでいる。その種類は400以上だそうだ。夢のような情景だ。食後はそちらに席を移して、しみじみと飲む。
 部屋に戻り、僕が先に風呂に入って服を洗濯して出てきたら後藤は既に眠っていた。明るい中で、眼鏡をかけたまま。いつものことだから放っておく。電気を消して僕も眠りに就く。
 旅では色々のトラブルも抱えつつ、「結局のところ」うまくいくことの方が多い気がする。そして王子様とお姫様は幸せに暮らしました、で締めくくられるような。人生も実にそのようにありたいものだ。


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