見るべき絵

 今日は暑い。空も明るい。再び本土へ戻るべく、船はハロン湾を進む。二つと同じ形のない岩が次から次に現れては過ぎ去ってゆく。エンジンつきの小舟が接近し、うまい具合にひょいっと僕らの船に横付けされる。赤や青のプラスティックの洗面器に入れられて、シャコ、イカ、カニ、貝が並んでいる。確かにこの手の観光船は頻繁に行き来しているから中にはこういう新鮮な海産物を買う人もいるのかもしれない。でも、僕らの船では誰も買っていなかった。
ハロン湾
 海水浴のための時間が設けられ、元気な人たちは船の上から歓声と水しぶきをあげて飛び込んでいた。僕は面倒くさがりだから、やっぱり泳がない。どうしたわけか船のスピーカーから小さな音でBGMが流れていて、それがタイタニックのテーマだったのが可笑しい。
 目的地の港を遠景に眺めながら船が止まる。かすかに心地よく揺れながら昼食。
 ハノイへ戻るバスでは、やっぱりずっと眠っていた。前回と同じホテルに行くと、今度は最上階の部屋をあてがわれた。物置と化したベランダがついている。窓が大きいのはいいのだけど、ぶら下がったカーテンは薄い布で、あまり光を遮るものではなかった。共同のバスルームは1階なので、少しだけ上り下りが面倒だ。でもたった2泊だからさほど気にしない。
土産物屋
 できるだけ細い路地を選んで歩き回る。表通りよりも美味しそうなものにたくさん出くわすことができる気がする。美人に出くわすのも、確率が高いような。気のせいだろうけれど。
 交通量の激しい交差点近くのカフェの二階で、たっぷりの練乳を混ぜたコーヒーを飲む。決しておいしいものではない。
 バイクの流れはまるで川の流れを連想させる。そこに存在するのであろう交通ルールは、僕の目には全く理解できるものではないけれど、ちゃんと淀みなくあらゆる方向に流れ続けている。バイクの合間を縫って、天秤を提げた女性がこれまたスムーズに渡っていく。道を行き交うそれぞれの人に長い布を結びつけて、それをこうやって上から眺めたらさぞかしきれいな光景になりそうだ。
 次第にブレーキランプの赤色が目立つ時刻になってきた。クラクションの洪水は途切れる瞬間すらない。いつの間にかどのバイクもヘッドライトをつけている。
 向かい側の食堂で、丼飯をもりもりとかき込んでいる人の姿を見ると、口の中につばがわいてくる。夕食時だ。
 この間と同じ屋台で、今度は鶏の内臓を具にフォーを腹に収める。その足で、同じ通りの屋台で小振りの赤貝を焼いたものを食べる。網に挟んだ貝を炭火で焼いて、中身をほじくってニンニクのきいたぴりっとしたたれにつける。合間に、独特の香りをした生の青菜をかじる。ビールが欲しくなってくる。
 何も考えずに歩いていると、旅行代理店やネット屋が集まっているエリアに出た。でも、そんなに外国人に特化したわけではなく、ハノイの街にちょっとだけカオサンが間借りしているようなささやかな場所。
 そこで「ビアホイ一杯1500ドン」という文字を見かけて、歩みを止める。白と緑のプラスティックの樽から、大ぶりのグラスに注がれる。6年前の記憶があったので、味も冷え具合もなんの期待もしていなかったのだが、それはかなりの程度裏切られた。何よりもちゃんと冷えているので、飲める。度数はかなり低いように感じられる。一杯がおよそ15円という気楽さも手伝って、すいすいと喉を下りていく。
 つまみには、すぐ近くで煙を立てている屋台で焼き鳥を買ってくる。大きな葉っぱに乗せて渡された。
夜のハノイの街角
 少し歪んだ十字路の一つの隅で、小さなプラスティックの椅子に腰掛けてビアホイを飲み続ける。その十字路は、よく数えないと道が五つの方向に分かれているように錯覚してしまう不思議な雰囲気を持っている。
 背中に赤ん坊を背負った6才くらいの男の子が、僕に向かって手を伸ばしてきた。反射的習慣的に、僕は首を横に振る。背中の赤ん坊がにっこりと笑った。僕は自分の行為が極端に間違ったもののように感じる。でも、そうだとしたらこれまでとの物乞いとの少なくない邂逅の数だけ間違いを重ねていたことにもなる。
 経験を積めば積むほど、知れば知るほど、世界の広範な茫漠性に捉えられて、語ることが困難になる。
 体躯の大きな欧米人の旅行者が歩く、バイクやシクロが行き交う、クラクションはずっと耳を叩き続けるけれど、さすがにその音にも慣れてきた。時折通り過ぎるタクシーは白のカローラで、どれも新車みたいだ。風向きによって、肉が焼ける香ばしい煙を全身に浴びる。
 ここではないどこかは、ここかもしれない、という発想が暗闇の中からそっと僕の中に忍び寄る。これまでは実感したことのなかった言葉だ。ハノイの十字路でも、京都でも西宮でもバンコクでも、そこは常に僕のいる場所として存在していたのかもしれない。
 だけど、これが僕の中に落ち着くにはインパクトが20%ほど欠けていた。
 旅が与えてくれるものの一つに、考えるきっかけというものがある。特殊な状況に身を置くことで、ふっと容易に姿を現すある種の事柄というものがある。そしてそれは、大事にしたいと思う種類のものだ。
 車輪をつけた木の板に座り、膝に幼児を抱えたおじさんがゆっくりとその乗り物をこいで近づいてきた。ひっくり返した編み笠が差し出される。僕の目の前には幼児の姿がある。僕は何もできない。近くのヴェトナム人女性が紙幣を一枚入れていた。やはり僕はひどく間違ったことを為した気がする。「所詮は観光客なのだ」というこれまでの一つの論拠があまりに乏しいものに思えた。
 誰か僕と旅について語りませんか。人生と同じで、一人で背負うには重すぎる命題のような気がするから。こんなことを痛切に思いながら、でもやっぱり僕は一人でビールを飲む他ない。
 何だか振り出しに戻ってしまったような気がする。いや、そもそも全く進むことすらしていなかったのかもしれない。何もかもが分からなくなってしまった。だけど、人生が続く以上は、少なくともあがくことは続けなければならない。うまくいけば、いつの日にか小さな島くらいにはたどり着くこともできるだろう。
 村上春樹の「海辺のカフカ」で、生きるということの意味がよく分からないと言ったカフカ君に、佐伯さんが静かな声でこう答えるシーンがある。
 「絵を見なさい」
 僕の見るべき絵はいったい何なのだろうか。
 4杯めのビアホイ。こいつのメリットは、酔わないことだ。これくらい飲めば、大体こんな感じになる、という僕が体得している指標に合致しない。そのズレの奇妙な感覚も、この街の暗闇も、5本の道路が集まっているように見える十字路も、僕の回路に混乱を来している。だけど、この感じは、僕は好きだ。


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