半日旅

 昨日の午後から回復した天候は、今朝も引き続いている。気温こそまだそれほど高くはないものの、よく晴れ渡った空が、今日の移動を快適なものにしてくれるだろうと予感させていた。
 旅の日程を可能な限り長く確保するべしというのは、一つの経験則である。96年の初めての東南アジア旅行を思い出す。
 その旅を計画したとき、既に海外一人旅に詳しかった大学の同級生が、当時の僕にとっては1ヶ月という長さは未知であり、まただからこそではあれ、十分だろうと思っていたところ、「え? 短いよ」と驚き、惜しむように言った。
 出発前の僕はその言葉に反感を感じたが、実際に旅の後半において彼の指摘が正しかったことを知る。2泊3日で駆け抜けたラオスや、西海岸を通過しただけのマレーシアなど、旅の終わりが近づくにつれ、もっと長い日程をとればよかったと悔やんだものだ。実際そのときには、大学の休みの都合上、もう少し長い時間をとれたはずだった。
 以来、可能な限り旅の時間を確保しておくことは一つの原則としてある。
 計画の段階では、それでも怯むことがある。こんなに長くいても退屈ではないだろうか、疲れるだけではないだろうか……。たぶん、未知なることに怯える気持ちがそういう否定的な予感を心に植え付ける。今回の波照間もそうだった。
 波照間島は2泊3日にしておいて、東京でもう1泊しようか。多くの友達とも会えるし、色々と買い物もできるだろう。あるいは、宿で1泊するお金があれば、友達の家に泊めてもらって浮いた分がそのまま飲み代になるな。自分への言い訳はいくらでも思いつく。
 だけど、多少悩んだ末に、きっぱりとそういう考えは捨てた。東京はいつでも行ける。だけど、波照間なんだぞ。何があるか分からない。だからこそ、可能性は広げておいた方がいい。時間は取れたのに、早めに帰ることを悔やむような、そんな旅はもうするべきではない。
 今回は3泊4日(実質的には、丸2日と少々)の滞在が最大限だった。もし、1日少なかったら、あの西の浜の海も見られなかったし、朝の清冽なこの空気も知らないままだった。十分とは決して言えないまでも、最大限の日程をとった結果、求めていた南国の旅の感興が得られたことには満足できた。
 朝食をとったが、やはり少なくない量を残すことになった。風呂場の湯が使えるのは午後4時からだから、水シャワーで寝汗を落とし、ほぼ丸一日に渡る移動に備える。干していた洗濯物を取り込み、iBookをケースにしまい、バックパックに鍵をかけ荷造りを済ませる。
 今日は、港で見送られる側だった。
 船にはエアコンの効いた座席と、デッキ部分の座席とがあった。このまま次の島への移動だけならば、潮風を浴びながら海を眺めているところなのだが、そういうわけにもいかない。石垣島に着いたら竹富島へ寄り道。そして関空を経由して羽田まで飛ぶ。羽田到着は午後8時15分。東京の友人と飲んで、そこから友人の家。たぶん、次にシャワーを浴びられるのは夜中過ぎだ。できるだけ潮風や汗でべとつく身体は避けたかった。
 うとうとしながらも、たまに窓外に光る海を横目にする。感嘆のため息がもれるほどに美しい。3日前に石垣島から来たときは、一面灰色の世界だったのが、青と緑との混合する複雑な色を映し出していた。できることなら、目に付いたどこかの島で、もうしばらくこの海を眺めていたかった。
 ちょうど1時間で船は石垣島に着岸する。ここも、別世界だった。人の営みの程度なんてまったく歯牙にもかけないように、日が照っていた。街を照らし出し、海を輝かせていた。港の中なのに、そのまま飛び込みたいような魅惑的な色をした海面だった。
 下船したら、同宿だった人が一人話しかけてきた。彼女は今日から竹富島へ渡り、そこで1週間ほどを過ごす予定。僕も飛行機の出発までの3時間ばかりを、竹富島で過ごすことにしていた。
 せっかくだからと、一緒に竹富行きの船の切符を買う。券売所に掲げられた時刻表を見ると、出航は5分後だった。
 あっと言う間に竹富島。港には各宿の迎えのバンが集まっている。多くはそちらへ流れるが、中には直接自分の足で歩き出す人たちもいる。港からまっすぐ歩くと15分ほどで集落に出ると、事前に経験者から聞いていた。だから、とりたてて観光案内所で地図をもらうでもなく、僕らもとりあえず歩き出す。バックパックを持ったままだが、着替えくらいしか入っていないので苦にならない。むしろiBookの入った日常使いのザックの方が重たい。
 しばらくは軽い上りのアスファルトの道が続く。デイゴの濃いオレンジの花が並木に咲いている。右手には牧場。なんてこともないな、と思った。風景に面白味はないが、でも、この空は気持ちよい、それくらいを考えながらのんびりと歩いた。
 波照間島は、「最南端の有人島」を外してしまえば、人の集まる町としての魅力に満ちていたわけではない。サトウキビ畑と、点在する民家の雰囲気も、これまでの僕の経験から言うと「外れ」の側に属する土地だった。
石垣のブーゲンビリア
 気がつくと人家の集まる区域にに入っていた。ここには、明らかに「当たり」の匂いがぷんぷんしていた。辺りにゴミはなく、とても整然としていて、それでいて温かみを感じる。人の背丈に届かないほどの高さの石垣が、真っ白い砂の道路と低層の民家とを隔てている。勢いよく花びらを開いたハイビスカスや、あふれんばかりのブーゲンビリアがそれを飾っている。(よく見ると、狭い石の隙間から、黒いアスパラガスのような、ミニチュアの竹の子のような、あるいはまた杉の子のようにも見える、あまり視覚的に気色のよくない模様をした、こりこりした感じの植物も生えていた。)
 これからしばらくここに滞在する彼女を羨ましいと思った。八重山諸島を旅する次の機会には、必ず竹富島で数日を取ろうと思った。
シーサー
 各戸の屋根や門柱に棲むシーサーは、それぞれが個性的な顔立ちでいる。牙を剥き出しにし、鬣を振り乱したようなのもいる一方で、目玉がきょろりとファニーなマンガチックなものもある。でも、あたりを睥睨するでなく、かと言って居眠りをするわけでもなく、ごく当たり前にそれぞれの持ち場にいた。
水牛車
 観光客を乗せた水牛車が角を曲がってきた。よく見ると、あちこちを何台もの水牛車がいる。人の歩みよりものんびりである。ガイドが三線を弾きながら案内している車もあった。
 僕は、竹富島で何をしたかったわけではない。敢えて言うのならば、時間をつぶしたかった。だから、今回この島では、海を見にコンドイビーチに出るわけでもなく、一周を試みるわけでもなく。
 ただちょうどお昼に重なっていたから、昼食をとろうとは思っていた。そのために、今朝のたましろ荘ではお握りも作らず、食べきれなかったおかずもそのままに食卓を後にしていた。
 宿で竹富島について教えてもらっているときに、「竹の子」という店で食べた八重山ソバが美味しかったと言う人がいた。また別の人は「どこでも同じように美味しかった」とも言っていた。
 いくつか教えてもらったのだが、店の名前とだいたいの行き方を具体的に記憶できていたのがその竹の子だったので、そこで昼食にすることにする。
 港から真っ直ぐに歩き、看板に従って右に折れる。それだけだった。途中で「出征記念」と彫られた鳥居の建つ神社を通り過ぎる。
 行き着いたその店は、ちょうど昼時ということもあり、あまりテンポのよい客のさばき方ではなかったが、のんびりと待つ。期待もないと、失望もそれほどでなくてよい。
 一抱えほどありそうな植木鉢の縁の曲線に沿って、一匹の猫が腹を上に無防備な姿で寝ていた。彼女は「肉球フェチなの」と言って、猫の足の裏を楽しそうにつついていた。
八重山ソバ
 僕も彼女もオリオンのジョッキと八重山ソバ。屋外の方の木陰の座席で乾杯。
 辺りの木にはカラスが飛び交っている。波照間でも感じたことだが、カラスが少なくない。(たましろ荘の主人は、朝食後の弁当作りの時間に「カラスにお握りを持って行かれて、後で『アホー』と言われないようにして下さい」と、毎朝冗談を言っていた)
 この昼食がちょうど折り返し地点。店を出て、途中「なごみの塔」に寄る。わずかに小高くなった丘にコンクリートの塔、というより櫓状の建造物が一つ。最上部の展望スペースは定員2名が限界。そこまでは急な段になっている。順番待ちをしておそるおそる上る。
 濃い緑の中にくすんだ赤い屋根が点在し、遠景には海も見えた。10メートルかそこいらの高さだが、上から眺める竹富島は風景も、吹く風も、下界とは異なる趣だった。
 再び港へ。僕の今夜の宿泊は、川崎市高津区の友人の家。彼女は、宿の予約はまだ入れていないけれど、まあだめだったらまた石垣島に戻ればいいし、と暢気に構えていた。
 今度は僕一人が船に乗り、10分後の石垣に向けて出航する。僕は船窓から、彼女は港に留まって手を振って、半日の竹富島の旅が終わる。
 石垣島に到着。予定通り。さあ、タクシーを拾って空港までと思いきや、声をかけられた。たましろ荘に同じ日に入り、2泊同室だった人だ。夜の西の浜に誘ってくれた彼である。
 偶然にお互い驚き喜び、記念に二人の写真をそれぞれのデジカメで撮ってもらう。
 石垣空港。チェックインの際に、航空券を二枚提示する。「関空経由で羽田まで」
 土産物屋で慌ただしく買い物。今夜の宿泊先への手みやげに泡盛を一瓶。一缶のオリオンは自分のため。もう一度建物の外に出て、石垣島の空の許、最後のオリオンビールを飲み干す。
 JTAも、僕が搭乗するANKも小さな機体ではあるが、この空港にあって、さらに小型のRACのプロペラ機も駐機していた。視界内での比較では、B737-500もずいぶんと大きく見えた。
 上空から見下ろす八重山の晴れた海を期待したものの、残念ながらすぐに雲に隠れてしまった。ほのかな酔いもあって、少し目を閉じることにした。


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