そのことのために

 やはり今朝も早起きだった。8時前に自然と起床。
 休日の月曜の朝、川のほとりでとる朝食はマンゴーシェイクにチキンサンドウィッチ。食後にゆっくりとラオスコーヒー。濃くて美味いと思ったが、そのはずである、カップの底には細かく挽かれた豆がどろりと沈んでいる。
 雨を落とし始める一歩手前くらいの薄曇りのぱっとしない空模様だが、歩き回るにはこれくらいの方が楽と言えば楽である。最終日にして、ようやくと観光と町歩き。とは言え、ここを発つのは12時20分発のTG689便、チェンマイ行き。あと4時間後でしかない。
 人から聞いていた様子、地図を眺めた感触、そして何よりも自分が吸い込むここの空気によって、おそらく半日に満たない時間でも、十分ではないかと思っていた。これまでの旅での経験に基づいたその判断は、既に初日から得られていた。
 食事を終えると、地図を取り出してだいたいの行程を確認しようと思った。が、見当たらない。3ドル払った地図なのだが、どこかで落としてしまったか、あるいは昨夜ビールを飲んだ席に置き忘れ、そのまま捨てられてしまったのやら。
 しょうがないので、記憶に従う。行き先は2カ所。
 宿のスタッフ、ビールを運び、トムヤムフィッシュを薦めた店員、洞窟までの旅行の斡旋をした兄ちゃん、これらは全て同一人物であるが、彼の薦めによる寺、ただし地図に印を付けただけで名前は覚えていない。そして国立博物館。後は時間があれば、適当に足の赴くままである。
 まずは、目の前のメコン川に沿った道を、上流へ向けて出発。確か、カーン川と合流する辺りにその寺があったはずだ。ただ、ルアンプラバンの町には、至る所で大小の寺と出会う。あまりにしょっちゅう出くわすので、いったいどれが目指すべき寺なのかよく分からない。おそらく観光スポットであれば、それなりの大きさで、しかもそれなりの雰囲気が醸し出されているものだろうと推測する。
 僕が滞在していた宿の近所には、他にもゲストハウスが数軒並んでいたが、しばらく歩くと、そういうエリアからは離れ、通常の民家ばかりになる。と、思うも、ふいに宿が点在している。普通に人が暮らす町と、観光客の集まる場所というのが、上手い具合に混ざり合って存在している。あるいはそれは、この町の小ささを示しているのかもしれない。
 ああ、おそらくここだろうと当たりをつけて入った寺が、どうやら目指すべき正解だったようだ。何しろ、入り口で入場券が売られているのだから。そのチケットによると、ここはシェントーン寺。空港から宿までのトゥクトゥクのチケットには「シェントーンコーポレーション」とあるから、社名にするくらいにメジャーな存在なのであろう。ただし、これが教えられた寺だったかどうかは、少々心許ない。名前の感じが、記憶とは違う気もする。が、まあ、よいだろう。
 境内にぱらぱらといくつかのお堂が並ぶが、色つきの金属片(プラスティックかもしれない)で壁面が賑やかに描かれている小さな建物に目が引かれた。
 田で牛を引いていたり、捕らえた魚や兎を運んでいたり、仏像に祈りを捧げていたりする、普段の生活の描写といったところである。が、それだけではなかった。ある人は、手を縛られ、役人のような人に引っ張られていたり、まさに刀が振り下ろされ、首が宙に舞った瞬間の人もいれば、棍棒を手にした僧に取り囲まれた中の人は、跪いて命乞いするかのように両手を合わせていたりもする。
シェントーン寺
 本堂らしき所へ入る。黒地に金色で、この内部の壁にも絵が描かれている。言葉はないが、何かの説話を示しているように見える。
 これがまた、ずいぶんとおどろおどろしい。大釜で茹でられる人々、巨大なノコギリで身体を縦に切られんとする人、槌で他者の頭を殴り倒す人、地面に立てられた竿の先のヒモに舌を結びつけられ、口を開いて上向いたまま身動きの取れなくなっている人。何だコレは、である。
 たまたますぐ横にタイ人の観光客がいて、ガイドがこの壁画についてタイ語で説明をしていた。耳に入った言葉に驚いた。「ウソをついた人、酒を飲んだ人などが……」
 この町にビールを飲みに来た僕はどうなると言うのだ。茹でられるのも切断されるのもちょっと遠慮したい。
シェントン寺
 また別の建物は、まるで物置のようだった。ナーガがデザインされた山車が据えられている他は、使われていない理科室の薬品置き場のようで、そのガラス棚に収められていたのは、小さな仏像や何かの本やあるいは菩提樹の葉の形をした団扇などだった。ナーガの山車は、それなりにしっかりと造られ、窓越しの朝陽を浴び、迫力もなきにしもあらずではあるものの、感嘆するほどではない。
 ナーガと言うのは、主として仏教関連の施設において、階段の手すりや屋根の庇の先などによく見かけるモティーフである。そもそもは大蛇である。複数の頭を持つことも多い。仏陀がまさに悟りを得んと瞑想していると、大嵐が起こった。仏陀を守るために、巨大な蛇が彼の頭上に覆い被さり、風雨を遮ったと言う。僕が始めてこのことを知ったのは、まさに仏陀が悟りを開いた地、インドのブッダガヤにおいてである。
 複頭の理由については、チュラの留学時代に先生から聞いたことがある。多少どうかと思うのではあるが、その大蛇が仏陀の頭上で首を素早く左右に振り動かし屋根のようにして守ったとき、その速さから、まるで頭がいくつもあるように見えたから、というものだ。
ナーガの山車
 カーン川に沿って北上していたつもりが、気付いたら二晩とも立ち寄ったインターネット屋の通りに出ていた。どうも自分の方向感覚とは異なり、実際にはいつの間にか、もと来た東へ向かって歩いていたらしい。都合がよい。これを真っ直ぐ進めば、国立博物館である。
 元は王宮だったと言う博物館だが、館内にはさほど興味を引かれる物がなかった。ほとんど足を止めることなく、ぐるっと一周して終わり。
 庭には、黒く大きな人の銅像が直立していた。よく言えば体躯の良い、実質に即して言えば中年太りの男性の像。おそらくはかつての王の一人なのであろう。だが、それが誰であるのか、どのような功績があったのか、何ら確かめなかった。知りたいと思うより、早く視界から追い出したいとさえ思い、門を出た。
 なぜだか僕はそこから肯定的な雰囲気を何ら受け取らなかったのだ。ただ単に、曇り空のせいかもしれない。だが、痛切に感じたのは、これから何があろうとも、自分の銅像が建てられるような人生を送ることはしまいと言う思いだった。

 あらかじめ頼んでおいたトゥクトゥクが宿の前で待っているが、「飲み終わるまで待って」と言っておく。まだフライトまでは1時間以上ある。到着したときの感じから、2時間前に空港に行っておく必要はまったくないように思えた。それに、ここから15分ほどの距離でしかない。川を見下ろしながら、ゆっくりと最後のビールを飲み干す。最後の一本は、よく冷えていた。

ラオビール
 宿代とビールの支払いを済ませ、最後に残ったラオスの通貨が7500キップ。これは0.75ドルに相当する。車代は2ドルだったので、ここに残りの1.25ドル分、50バーツを追加して運転手に支払う。見事にキップを使い切った。
 キップに両替する必要はなかったのだが、バーツで支払った際のお釣りとして渡されて、ちょこちょこ使いながらも最後まで手許に残っていた分である。
 旅先で、きれいさっぱりお金を使い終わるのは意外に難しい。そもそもそんなに大金を持って行かないから、再両替するほどでもない金額しか残らないが、その小銭は結局使い道のないものである。こうやって見事なまでにゼロになったのは始めてのことだと思う。些細なことだが、嬉しい。
 空港に着いたのは、結局フライトの50分前だったが、これでもまだ早過ぎた。待合室には結構人が待っていたが、実はこのほとんどの人は、一つ前のバンコクエアウェイズの乗客だった。彼らが搭乗してしまうと、ロビーはまたひっそりとした。
 自分の便を待っている間、もう一本だけ、本当に最後のラオビールを飲むことにした。結局のところ、またわずかながら釣り銭として受け取ったキップが残ってしまった。やはり、完全に使い切るのは難しいものだ。
 待合室のテレビからは、中国の放送が流れていた。
 係員が、マイクを通してではなく、肉声で搭乗の案内をする。乗客はターミナルビルを出て、三々五々、目の前に駐機された飛行機に向かって歩く。数段のステップを上り、山あいを飛ぶ小さな国際線に乗り込んだ。
TG689便
 確かに、観光という観点では、ポーシ寺も国立博物館も、さして盛り上がることは何もなかった。仏教関連の施設は、特にタイとの対比で見てしまうと、どれも素朴に過ぎる。目の覚めるほどに美味しい食事や、活気溢れる市場があるかと聞かれたら、そんなこともなかった(休日だからかもしれないが)。
 では、ルアンプラバンがつまらなかったから、もう来ることはないかと問うてみたら、むしろそうではなく、また近い内に足を運びたいとさえ思った。わずか3日程度を過ごした上での個人的な感想としては、この町は、やはり川沿いで静かにビールを飲むのに適している場所だと思う。
 その観点では、非常に雰囲気のよい、またバンコクからのアクセスも悪くない場所だと思う。極端な 話し、土曜の朝便で飛んで来て、日曜の昼便で戻る、と言うだけでもよいような気がした。今回で見るべきものは見たような気もする。次回からはもう、観光は最初から放擲して、純粋に一つの目的のために。
 ちょっとした気分転換に、あるいは何がしかの考え事をするために、川べりの風に吹かれながらビールを飲むことを目的として訪れる場所の選択肢としてリストしておこう。例えば、身近に気に入りの店やバーをいくつか用意しておくように。
 考えようによってはぜいたくだ。ビールを飲みに、メコンのほとりの世界遺産まで。


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