泥色の河(b)

 午前の太陽が一つ、頭上に輝いている。
 右手の上方を渡るタクシン橋が、辛うじて日陰を投げかける。岸辺に寄せる緩やかな波に合わせて、僕らの足場もゆっくりと上下する。
 スコータイ、アユタヤと南下を続けてきた歴代の都だが、ビルマ軍の侵攻から逃れ、新たに王朝を興したタクシン将軍は、さらにその南方、国土を南北に貫く大河の下流域に都を定めた。トンブリー朝である。
 そして、それに続く現在のタイの首都は、チャオプラヤ川を挟んで反対側、川の東岸に栄えている。外国語ではバンコクと呼称されるこの街だが、タイ語では一般的に「クルンテープマハーナコーン」、あるいは省略して「クルンテープ」である。
 「クルン(中心)・テープ(天使)・マハー(壮大)・ナコーン(都市)」 すなわち、壮麗な天使の都である。

*  *  *  *  *  *  *  *  *  *

 昨日のことがあったので、今朝の出がけには、カバンの中に水着とゴーグルと2冊の本を持ってきた。だけど、彼女と僕は服を着たまま、プールの横をかすめてホテルの船着き場まで歩く。水着に着替えることのない一日になりそうだった。
 「のんびりと川が見たいわ」という希望に、僕はいくつかの選択肢を提案した。
 「ペニンシュラホテルでお茶をする。曇り一つない大きな窓から川を眺められる。ここは、スコーンがとても評判だ。
 あるいは日が暮れてから川沿いのレストラン、もしくはシャングリラホテルのディナークルーズ。夜の風に吹かれながら美味い料理を食べる。
 ロングテールボートを一隻雇うのもありだね。乗ったことはないんだけど、よく見かける。そんなに高くはないと思う。運河がつながっていれば、どこへでも行ってくれる。
 それとも、チャオプラヤエクスプレスという、それこそ市バスみたいな船に乗って、適当な所まで行って折り返してくる」
 僕としては、できるだけ涼しい方を選んでもらえるとありがたいと思いながら、そういう順番で挙げてみた。
 でも結局、彼女が選んだのは一番最後の選択肢だった。
 まだ中天には昇りきっていない太陽が、茶色い川面にきらきら反射している。ホテル名が大書された送迎船がゆっくりと上流から近づいてきた。ホテル内にあるレストランの看板がその屋根に乗っかっている。客の目の前で胡椒挽きを頭上に放り投げたり、コテをジャグリングしてみたり、派手なパフォーマンスが売りの鉄板焼きの店だ。昨日の帰り際にたまたまその横を通ったら、空中を海老が踊っていた。そして、それを写真におさめている家族がいた。僕にはさっぱり訳が分からなかった。
 10人ばかり、新たな客が下船してきた。今日チェックアウトの人たちは、荷物をボーイに運んでもらっていた。僕たちは、見ようによっては、これから市内の観光に出かける二人連れというところだろう。
 僕が先に乗り、彼女の手を取ろうと右手を差し出す。「気をつけてね。落っこちると、チャオプラヤ大なまずに喰われちゃうんだから」
 彼女も右手を伸ばし、僕はそれを握った。柔らかで温かな手だ。彼女は小さな黒い革のカバンを左の小脇に抱えて、ひらりと乗り込んできた。
 「ピラニアはいないのかしら?」と、席に着きながら冗談めかして彼女が言う。
  「熱帯農学を専攻した人間としてはっきりと言わせてもらえば、あれは南米に棲息する魚だ。アジアにはいない」
 そして、できるだけ深刻な口調を保つようにして、注意を与える。
 「でも、考えようによっては、チャオプラヤ大なまずの方がよっぽど恐ろしい。ピラニアはその強靱な顎と鋭い歯で肉と骨を砕くけど、チャオプラヤ大なまずが好んで食べるのは、もっとシビアなものなんだ」
 「血を吸うとか、そういうこと?」
 「違う。チャオプラヤ大なまずは、その大きな口で人間の性欲をすぽっと吸い取ってしまうんだ。ごく稀にではあるけれど。
 一度だけそういうのをテレビで見たことがあるよ。何とも形容し難いもにょもにょした緑色のものが、人の頭のてっぺんから抜け出て、黒くぬめっとした巨体ににゅるっと吸い込まれていった。そうしたらそのなまず、長い髭をぶるんって震わせて、満足気にげっぷをしたんだ」
 「性欲を奪われた当人はどうなったの?」
 「別にどうにもならない。普通に生活を送れる。ただ性欲がない、というだけのことだから。でも、僕が見たその番組の人は、幸か不幸かたまたまお坊さんだったんだ。リポーターのインタビューに、難しい顔をして『私には無用の物です。これで一層修行に専念できます』って答えてた。
 僕ならゴメンだね。あったらあったで取り扱いに困ることもあるけれど、僕の性欲は少なくともなまずの餌じゃない」
 彼女は少しだけ、その形のよい眉をしかめた。
 「この話は、あなたの専門知識から出たものなのかしら。修士まで行って、何をやっていたの?」
 「だいたいは、チャオプラヤ大なまずの生態と食料への応用を研究していた。今でも覚えているけど、修士論文はなかなか画期的だったんだよ」
 「いったい、何を研究なさったのかしら」
 声のトーンが半段階ほど下がった。行きがかり上訊いてはみるけど、どうしても聞きたいわけではないのよ、話題を変えるか、それとも口を閉じた方がいいんじゃないかしら。そう、彼女の表情が語っていた。
 まずいな、と頭の片隅で警告が発せられた。調子に乗ると、ついつい下らないことを際限なくしゃべってしまう。もう、癖みたいなものだ。幾度となく失敗してきた。学習能力が低いのだ。
 だけど、投げかけられた質問には答えなければならない。適切な軌道修正が咄嗟に思い浮かばないまま、仕方なく当初の下らないアイディアを続ける。
 「標題はこうだ。『来たるべき人口増加に伴って発生する、世界的食料不足への抜本的解決策の提示−−−チャオプラヤ大なまずを事例として』
 活きのいい男子高校生を集めて、なまずと一緒にプールに放り込むんだ。あの世代の性欲なんてほとんど無尽蔵だし、彼らにとっても行き場のない欲求が解消されることで、勉学にも身が入るってものだ。新しいタイプの養殖ってところだね。
 そうやって育ったなまずは、自然界にいるものよりも随分と成長が早くて、結構な高蛋白食品として期待できそうだった。論文の最後では、どのようにその身を美味しく調理するか、引き続き研究が望まれるって締め括ったよ」
 ていねいに答えたつもりが、いつの間にか彼女は僕から視線を外して川を眺めていた。肩の辺りに漂う空気の感じから、チャオプラヤ大なまずの影を探しているようには見えなかった。
 それから沈黙が10分ばかり続いた。気詰まりするタイプの沈黙だ。どうしたものかと思っている内に、タクシン橋の下に着いた。僕が先に下りて右手を差し出したけれど、今度は誰の助けも借りずにひょいと降りてきた。
 隣接しているサトーン船着場で、チャオプラヤエクスプレスがやって来るのを待つ。午前の太陽が一つ、頭上に輝いている。

*  *  *  *  *  *  *  *  *  *

 黒いスラックスに白い開襟シャツを着た係員が、混雑した船内を縫うように料金を集めに来た。「ノンタブリーまで、二人分」と、伝えて小銭を渡す。少し怪訝な顔をされた。「この船は快速じゃありませんよ。終点までだったら、次で降りて乗り換えた方が……。快速船は、船首にオレンジの旗を立てているので、それを目印にしていただければ」
 「ありがとう。でもいいんですよ、ゆっくりした道中が好きなんです」
 こう言うと、うなずいて切符を切ってくれた。終点まで買っておけば、彼女が唐突にどこかで降りたいと言い出しても、問題はない。少なくとも僕は、どこまで行くのか分かっていないけれど、おそらくそれは彼女にしても同じことではないだろうかと思っていた。
 サトーンを発ってしばらくは、両岸に錚々たるホテルが並ぶ。シャングリラ、ペニンシュラ、シェラトン、オリエンタル。なぜかその名のいずれにもラ行音が含まれる。「りら・しゅら・しぇら・り・る」と、声に出すたびにいつも、呪文を唱えているような不思議な気分になる。エロイムエッサイムとか、アブラカダブラとか、パルプンテだとか。
 僕と彼女は、船体の半ばほどで手すりにつかまって立っている。入安居の日だからだろう、サフラン色の袈裟を着た僧の姿が普段よりも多い。ちゃんとこの船には、彼ら専用の場所がある。
 シープラヤ船着場で、大勢降りて行った。
 「右側に座った方がいいよ。そっちだとずっと日を浴びることになるから」と、空いた座席に腰掛けようとした彼女を制して僕は言った。彼女が窓際に、僕もその隣に座った。風が気持ちよく吹き抜けていく。
 パーククローン市場の横を通り過ぎると、いよいよ観光地ハイライトが始まる。だが、案内されて市内を巡ったことがあると言う彼女は、おそらくその大方の場所を訪れたことがあるだろう。だから僕は、少し集中して頭の中を検索する。
 左手にアルン寺。その仏塔に仏舎利を抱く。財布から10バーツコインを取り出して、彼女の目の前にかざす。外側は銀色、内側は金色の、世界的にも珍しいデザインである。「ほら、この金色の部分。目の前のワルン寺が刻まれている」
 「屋根がちょこっと見えるだけだけど、あっちがポー寺。菩提樹の寺。行ったことがあると思うけど、とんでもなく大きくて、この上なく派手な金ぴかの仏像が寝転んでる」
 彼女は唇の端にかすかだが微笑みを形づくる。「そうね、そうだったわ」というニュアンスが伝わる。僕は喜んで専属ガイド役を続ける。
 晩年は気が狂い、臣下に殺害されたタクシン王。わずか一代でトンブリー朝は終焉を迎える。そして今からおよそ220年前、新たに王座に就いたのが、ラーマ1世。現在のプーミポン・アドゥンヤデート王、ラーマ9世につながる、チャクリー朝の始祖である。
 この王朝はまた、その中心地の地名から、ラッタナコーシン朝とも呼ばれる。当時その地域は、アユタヤの都と同じように、濠がめぐらされ島として存在していた。今ではその多くは埋め立てられ、一部の流れが残されているに過ぎないが、「ラッタナコーシン島」という地名に往時をうかがうことができる。
 この「ラッタナ」は、インドラ神の宝石であるエメラルドを意味する。仏教国でありながら、ヒンドゥーの影響も少なくない、不思議な文化を持つ国だ。
 右手前方、少しだけ奥まった辺りに、金色に輝く壮麗な王宮の姿が目に入る。
 「あの中に、エメラルド仏が祀られていた思うんだけど、見に行ったのは何月だったか覚えてる? あの仏像、実は季節に応じて着替えるんだ」
 少し彼女の目が疑いを含む。僕は力説する。「本当に本当なんだ。暑季には布を一枚巻いているだけで、寒季はもうちょっとしっかりしたものを首までまとう」
 「雨季はどうなのかしら?」
 「もちろん、ちゃんと傘をさす」
 少しの沈黙。そして、笑い出して言った。「いくらなんでもそれはないでしょう。想像したら可愛らしい感じがするから、ちょっと見てみたい気もするけどね」
 「確かに。傘はささない。それは僕のフィクションだ。だけど、季節によって服装を替えるのは事実だよ。隣接する博物館にもちゃんとそういう展示がある」
 ガイドブックとカメラを持った人たちは、ティアン、チャーンの辺りで下船する。僕らは、いや、彼女はまだ席に着いて風景を眺め続けている。
 「ちょと大きな建物が並んでるあの辺が、タマサート大学。リベラルな校風が有名で、タイにしては珍しく制服のない大学なんだ。僕らにしてみれば、大学に制服があること自体が珍しいけれども。
 学生運動も盛んだったんだ。76年の血の水曜日事件では、100人以上がキャンパスで銃弾に倒れた。それも、自分の国の警察と国境警備隊の手によって。
 そう言えば、日本製品の排斥運動が激しかったのも、ここの学生だ。今、僕の会社の隣の席の人はタマサート出身なんだけど、トヨタ車に乗って出勤して来るし、その車内にはキティちゃんのグッズが所狭しと飾られてる。バイオのデスクトップには、ジャニーズの誰かしらの画像が日替わりで表示されるように設定されてる。おもしろいものだね」
 ラーマ8世橋をくぐる。日が暮れると、ライトアップされた非対称のワイヤーが、ハープシコードの弦のように夜空に浮かび上がる美しい吊り橋だ。
 だが、北上するにつれ、次第にガイドとしての役割が減ってくる。

*  *  *  *  *  *  *  *  *  *

 「これまでに、すごく大事なものを捨てた記憶ってある?」
 ふいに彼女が訊いてきた。船は既に中心部を抜け、風景からは高い建物が姿を消し、代わりに、民家とその合間に生える緑が豊富に目に入る。船内の座席には、半分くらいしか人が残っていない。車掌も、操舵席近くの空いた座席に腰掛けている。
 僕は少しだけ戸惑う。
 「それは、実際に何かしらの物ってこと、それとも抽象的なことも含めて?」
 「どちらでも同じようなことだと思うけど。ポイントは、捨てられた物が何かではなくて、それがすごく大事かどうかって方にあるの」
 「ある」
 僕はできるだけ、そのことを思い出さないように簡潔に答える。
 影さえ奪ってしまうほどの、強い日射しが水面を照らしている。チャオプラヤの流れはしかし、その中にある何物をも遮蔽する。何を湛えているのか、うかがい知ることはできない。目に映るのは、ただ、泥の色をした水と、そこに反射する熱く白い光だけだ。
 彼女の言葉の中に、あの日の僕を非難する意図があるのだとしたら、僕はそれを甘んじて受け容れなければならない。彼女が「今すぐここから川に飛び込んでみせて」と言ったら、僕は躊躇しないだろう。
 だが、彼女は黙っている。僕は少し考える。
 「もしも何かを捨てたい物があるのなら、この場所はちょうど良いよ。川に沈めてしまえば、何であれもう二度と誰かの目に入ることはなくなる。僕らの足の下には20メートル近い深さで泥水が流れているし、おそらく川底には、それよりももっと深く、軟らかな泥が堆積している。その代わり、後でもう一度取り返したいと思っても、絶対に無理だから、よく考えて決めた方がいい」
 時間はまだたっぷりある。終点までは、後1時間近くかかる。
 付け加えてこうも言う。「僕がいない方がいいんだったら、次で降りるけれど」
 彼女はまだ口を開かない。汗の粒が、じっとりとした背中を滑り落ちる。
 もし、本当に捨てるべきものがあるのだとすれば、それはいったい何なのだろうか。物理的な物であるならば、少なくともその小さなカバンに収まるサイズでなければならないはずだ。
 あるいは、形而上的世界に属する存在だろうか。だとしたら、うまくいけばチャオプラヤ大なまずが食べてくれるかもしれない。彼らは、人の目には見えないものを好む。彼らは、退化した目ではなく、その対になった長い髭で、食物かどうかを感知する。ある人にとって大事な、必要不可欠なものであればあるほど、彼らは尾ビレを大きくくねらせ素早く近寄って、そしてぱっくりと開いた大きな口から、暗い虚無の喉奥にするりと飲み込む。
 ふいに一瞬ぴくりと震えた彼女の背中に、僕は何もできなかった。そっと肩を抱くことも、言葉をかけることすらも。
 ごおおっと唸る船のスクリュー音と、船体が水を掻き分ける音が長く長く耳に響く。

 ふいに僕のカバンで、携帯電話が鳴った。タイ人の友達からだ。手短に用件を話して切る。サイレントモードに設定し直して、キーロックをかけて再びカバンにしまう。
 「何だったの?」
 振り向いた彼女の明るい表情には、先ほどの動揺の跡を窺うことはできない。素晴らしく強い人だ。でも僕は少しだけそこに寂しさを感じる。そう、僕は彼女のそういうところにも憧れていたのだ。
 「うん、ちょっとね。今晩ご飯に行かないかって誘いだったんだけど。日本から友達来てるんで、って断っちゃった」
 「ありがとう。でも、気を遣わなくてもいいのよ、本当に」
 電話の相手には「じゃあ、その友達も一緒に連れて来れば?」と、誘われたことは口にしないでおく。ささやかな秘密を川面に向かって吐き出す。ほら、やっぱり来た。水面から背びれだけをのぞかせて、なまずが一匹。さっと飲み込んで、小さな渦だけ残してすぐに潜って行った。どうかその姿が、彼女に気付かれませんように。

*  *  *  *  *  *  *  *  *  *

 結局、終点のノンタブリーまで行って、タクシーで戻ることになった。川風に吹かれていたとは言え、2時間近く真昼の空気の中にいたので、全身が汗でべたついていた。ホテルまで帰ってしまうとかなり距離があるので、途中で一度僕の家に寄ることになった。
 僕が先にシャワーを浴びて、さっぱりとしたTシャツに着替えた。洗面台の上の棚から、たたんだバスタオルを一枚取り出して、彼女に渡す。「ごゆっくりどうぞ」
 すぐそこの扉を一枚隔てた向こうから、彼女がシャワーを浴びている水音が聞こえる。僕は、火にかけた目の前のヤカンに映る、ぐにゃりと引き延ばされた自分の顔をじっくりと眺める。まばたくこともしない。想像力の回路を遮断するように努める。
 シューという音が、いったん落ち着いて、そして鋭い音で沸騰が知らされる。はっと意識を戻して火を止めた。
 揃いではない二つのマグカップに、たっぷりとコーヒーを注ぐ。
 リビングのテーブルに着いて、向かい合ってそれを飲む。
 「相変わらず美味しいコーヒー」と、彼女が言う。
 「ありがとう。僕のささやかな特技だね。美味いコーヒーをいれること。実際的に役に立つことはほとんどないけど、ごく稀に、こうやって温かい言葉をかけてもらえる」
 彼女は、その両手でカップを包みこむようにして少しずつ飲んでいる。
 「広い庭ね」と、彼女が窓の外を見下ろしながらが言う。
 「この風景を気に入ってこの部屋を選んだんだ。緑を眺めてるだけで、気持ちのよい時間が流れていく。運が良いと、マンゴーやバナナが実を結ぶときもあるんだ。色づいた実を毎日眺めながら、もうすぐ食べ頃だなって目星をつけている内に、タイミング悪く誰かに収穫されちゃうことの方が多いんだけど」
 西に向いた窓から、木々を透過した太陽の光が届く。時折彼女は目を細めている。夕暮れの風が、梢を揺らす。プールの方からは、仲の良い姉妹がはしゃぐ甲高い声が聞こえる。
 僕はカタリと音をたてて椅子から立ち上がった。
 「コーヒー、もう一杯いかが?」
 「ううん。ありがとう」
 僕は空になった二つのマグカップを手に取り、カウンターキッチンに並べて置いた。コトンという音がした。カップの底に、歪んだ茶色い模様が描かれている。
 僕は少し緊張し始めている。言葉が、再び失われたかのようだ。今度はため息すら出てこない。何かの塊が身体の奥につかえている。
 全身がこわばった。指がカップに貼り付いたまま離れない。
 不自然な姿勢のまま首だけ振り向くと、そこには、庭を向いている彼女の横顔と後ろ姿とがあった。
 どこかで、鳥がクゥエエッと鳴き声を上げた。
 彼女がこちらを見ずに、横を向いたまま口を開いた。
 「ねえ、お腹空いちゃったわよ」
 努力して、ゆっくりと首の筋肉の力をほどく。同時に、指がマグカップから剥がれた。そして、僕は正しい呼吸の仕方を思い出す。コーヒーの香りと、草木の匂いとが含まれた空気をたっぷりと吸い込む。
 彼女の横を通りすぎて、椅子に戻る。ほのかな香水の香りが胸を締め付けた。再び僕と彼女は向かい合って言葉を交わす。
 「何を食べに行こうか?」
 「美味しいタイ料理よ、当然。それから、よく冷えたビール」
 「だったら、一番美味しいイサーン料理の屋台に行こう。ソムタム、カオニャオ、ガイヤーン。知ってる?」
 彼女は首を横に振る。
 「青いパパイヤの辛いサラダ、蒸したタイ米の餅米、タレに漬けて炭火で焼いた鶏。氷を入れたシンハビールには、最強の取り合わせだよ」
 そう言えば、と僕は付け加えた。「僕の携帯番号を教えた、東京のあの先輩も大のお気に入りなんだ」

*  *  *  *  *  *  *  *  *  *

 ラーチャダムリ通り。バンコクの中心街の、そのまた中心を南北に走る太い通りだ。セントラルワールドプラザという巨大なショッピングコンプレックスの前を少しだけ通り過ぎる。バス停と、「王室管財局占有地」と看板のある更地との間の狭い歩道の上に、タイ東北地方の料理を出す屋台が並ぶ。通りを挟んだ向かいには、ビッグCという、これまた巨大なスーパーマーケットが建つ。
 じゅうじゅうと肉の焼ける煙に鼻をひくつかせながら席に着く。他の客のテーブルをぐるりと見回した彼女は、期待に満ちた声で言う。「どれも美味しそう!」
 「シンハビールと氷ちょうだい」と、店員に声をかける。彼は小さなメニューとメモ帳と鉛筆を渡すとすぐに去って行く。僕はメニューを見ずに、注文する料理を書き込んでいく。
 「ところで、せっかくだから、川魚の塩焼きも食べてもらいたいんだけど、なまずか雷魚かどっちにする?」
 「なまず? 性欲を食べてるんでしょ……。そんな魚、ちょっと嫌よ」
 「ううん、そんなことはないんだ」と、僕は鉛筆を振って否定する。「性欲を食べるのはチャオプラヤ大なまずだけ。普通のなまずは、もっと一般的なものを餌にしてるから大丈夫」
 「それって何よ?」
 僕はふふんと笑ってから答える。
 「主に、人の名誉欲とか金銭欲とか、その辺りだね」
 「まったく、あなたの冗談は相変わらず下らないのねえ」と、大仰なため息がもれた。
 僕は「雷魚塩包み焼き、一皿」とメモ帳に書き込んだ。
 素敵な夕食だ。たぶん、バンコクで暮らし始めてから一番最高に素敵な夜だ。すぐ横をひっきりなしに車が走る。取り囲むビルの看板の照明やネオンサインが、華やかさと騒々しさを一層際立たせる。店の人たちは、息つく間もなく注文を受け、空いた皿を片づけ、合間に道行く人に席を勧めている。
 真っ赤におこされた炭火の上では、丸ごとの鶏がほどよく飴色に色づき、塩でくるまれハーブを口から突っ込まれた雷魚がずらりと並んで焼かれている。串刺しにされたなまずを頼む人もちゃんといる。
 彼女は唐辛子の辛さに悶えながら吹き出す汗と格闘し、僕は追加で頼んだ牛タン焼きをつまみにグラスを傾けながら笑ってそれを見ている。この気温の中、ビールはすぐにぬるくなる。二つのグラスに氷を放り込む。
 たらふく食べ、何と彼女は雷魚のお代わりまで頼んで、ビールの空き瓶は次々とテーブルの下に並んだ。
 合間に、僕らは色んな話をした。この空白の3年間について。僕は留学していた大学のことを語り、今の生活について詳細に語った。彼女は自分の携わる仕事の魅力と、取引先の奇妙な中華系のシンガポール人についておもしろおかしくそのエピソードを披露してくれた。
 僕は腹をかかえて笑い、満腹になった胃袋をさすってみせた。本当に、素敵な夜だった。まるで僕らの周りを、陽気な天使がラッパを吹き鳴らしながら踊っているように思った。
 僕が、その夕闇に含まれていた本当の意味と、触れられなかったポイントの重大さに気付いたのは、翌日のことだった。


戻る ( a )   目次   ( a ) 進む
戻る ( b )     ( b ) 進む

ホームページ