そのことのために(b)

 車軸のような雨が降りつける。フロントグラスで弾ける大粒の跡は、銃撃戦の記憶を留める城壁を連想させる。次から次へと、透明な弾痕が描かれては消えてゆく。
 雨粒はまた、黄色と緑で塗り分けられたタクシーのあらゆる場所を余すことなく叩く。ボンネットの上で威勢良く踊り、天井を打ち鳴らし、ワイパーの努力を嘲笑う。通過する貨物列車を、鉄橋の真下から見上げるときのような激しく重い音がする。
 高速道路を空港に向かって走りながら、まるで世界の一切から隔絶された気分になる。運転手も口を開くわけでもない、ラジオやカセットテープがかけられているわけでもない。硬い雨音と、水で覆われたアスファルトの上をタイヤが滑る、上質紙を裂くような音だけだ。
 せわしなく振れるワイパーが作り出す隙間を、運転手はじっと見詰めながらハンドルを握っている。前方の視界にほとんど何も映らないこの状況で、スピードメーターの針は80kmを下回ることなくわずかに揺れているだけだ。彼から発せられるピリピリとした緊張感が、後部座席にまで届く。
 エアコンの吹き出し口からは、冷やされた空気に混じって雨の匂いが流れ出る。雨の匂いは狭い車内を満たし、鼻腔に流れ込み、そして肺を通じ全身の隅々に行き渡る。僕はわずかに汗ばむ両手のひらを、顔の前で開いてみる。雨の分子が毛細血管をするりと泳ぐ様が見てとれるような気がする。指の先からじわりじわりと水が貯まる。まるで深い流れの底を這っているような気分になる。
 雨でよかったと、光の射さない水底で僕は安堵する。

*  *  *  *  *  *  *  *  *  *

 「せっかくの三連休の最終日なんだから、自分のしたいことをしたらいいじゃない。土日とも付き合ってくれたこと、本当にありがとう。すごく楽しかったわ」
 それでも僕は「明日も空港まで行くよ。僕のしたいことは、そのことなんだから」と、言った。
 「うれしいけれど……」と、彼女が言いよどんだ。その気持ちは分からないではない。正確ではないにせよ、彼女の感情の核を包含する、ぼんやりとした固まりを認識することができる。冥王星から地球の姿を探し、漠然と成層圏を捉えるくらいには正しいはずだ。少なくとも、誤解して月を眺めているようなことはない。
 「うん、うれしいけれど、でも、ここでさよならした方がいいような気がする」と、彼女は改めて意志的に語った。
 僕は理由を聞きたくはなかった。彼女がそういう気がすると言うことには、そこには確たる理由があるからだ。同時に、それを僕に語らないことにもまた意味があるからだ。あなたは知らない方がいいと思うの、と、言葉を通じるよりもはっきりとしたメッセージが届けられる。
 だけど、僕にしてみたところで「そっか、じゃあこれで」と、あっさり引き下がるわけにはいかない。同じように、それは実体を持った言葉としては僕の心の中以外のどこにも存在しない。
 2日前の朝の電話を受けたときから、心の奥深いところでわき起こり、そしてまるで夏の始まりの朝顔のように、日ごとに僕の身体に巻き付いて伸びていったものがある。僕は、それから逃れられない。むしろ、身を委ねている。
 言葉にならない思い、するべきではない意思が、僕と彼女を取り巻く空間を埋めていく。
 二人の間を隔てているのは、一層の夜の空気だった。闇と明かり。温もりと湿り気。あるいは思い出と、鮮明さを欠いて揺らぐ未来の像。手で触れることのできる言葉と、語られることのない思いたち。それらが全て、薄い夜の層に混沌と溶け込んでいる。
 僕は考える。彼女も黙っている。全ては沈黙に包まれる。まるで温かな水銀のようだ。大きなガラスの瓶に満たされたとろりと重たい液体に、僕は全身を捕らえられている。視界は銀色一色だ。そいつを握りしめようと手を伸ばしても、するりと指の間から逃げていく。浮上しているつもりが、知らない内により深みへと潜行している。
 彼女の黒い瞳に意識を掻き集める。集中するんだ、と自分に何度も言い聞かせる。
 ふと、手の先にかすかに触れるものがあった。懐かしい記憶の感触がする。だが、物置の片隅で白く埃をかぶった箱のように、その中身が何であるか、もはや誰も知らない。役立つのかどうかも分からない。でも、今の僕にはそれしかなかった。必死にその何かをたぐり寄せる。
 「賭をしよう。昔よくやったように」
 それぞれに十分な理由と説得力のある相反する事柄について、どちらかを選択する必要に迫られたとき、僕たちはよく賭をした。大抵はコインを放り投げて裏表を言い当てた。時として、日曜の昼前に家を出て最初にすれ違う人の性別を当てることだったり、それぞれの友人に携帯電話からメールを送ったときに先に返信を受け取ることだったり、二人で体重計に乗って表示されるデジタルの数値の少数第一位の偶数・奇数だったり、財布に入っている十円玉の多い少ないだったりした。
 「運を天に任せてみるってのでどうだろう。明日の朝、雨が降っていたら僕は空港まで行く。イミグレーションの所で見送るよ」
 「雨でなければ?」
 「そのときには、そもそもの予定をこなすことにする。洗濯とプール。ちゃんと見送りもするよ。離陸した飛行機は、真南に向かって高度を上げるんだ。雲さえなければ、家から機体がよく見える。だから、プールサイドから大きく手を振ることにする。その場合、君は右の窓際の座席に座って、シートベルトサインが消えるまでは、どこであれ地上を見ていてほしい」
 彼女のフライトが夕方であれば僕に少し有利になる。8月始め、雨季の中頃は、その時間帯が一番降りやすい。だけど、夜中に激しい雨音で目覚めることもあれば、朝の出かけを思いとどまらせるほど強く降ることもある。いずれにせよ、この国で雨季というのは、時間帯は問わずとも、雨というものが降りうる季節のことである。逆に言えば、雨季を外れてしまえば、まず雨雲が空を覆うことがない。ただ、その青空の、青の色調が異なるだけのことだ。
 「ところで、何時の便?」
 「1時過ぎのシンガポール航空」
 勝率は半々だろうと僕は踏んだ。

*  *  *  *  *  *  *  *  *  *

 「お客さん、国際線それとも国内線?」と、運転手が尋ねてきた。
 「国際線の第2ターミナルへ」と、僕は静かに答える。車は左に寄り、空港進入レーンに乗る。スピードを落とし、道路は大きく右に曲がる。
 家を出てタクシーに乗り込んでからきっかり20分で、僕はドンムアン空港国際線第2ターミナルビルの出発フロア前に立っていた。車から降りた瞬間に真っ白に曇ったサングラスを外して、Tシャツの首にかけた。少し余裕を見過ぎたかもしれない。約束の時間まで、ゆうに30分はあった。
 ビルの中は、エアコンが効きすぎていて身震いするほどだった。チェックインカウンターの案内図にずらりと掲示された航空会社の一覧を眺める。それだけで、僕が飛び立つわけではないのにも関わらず、胸が高鳴る。
 ターミナルの左手、10番カウンターの前で、彼女を待つ。合間の時々に出発案内のモニタを眺め、示された地名を頭の中の地図にプロットしてみる。世界はあまりに広かった。
 大きな荷物をカートに乗せて行き交う人々は、立ち去る土地の雨のことなんか気にしていないように明るい表情をしていた。あとしばらくすれば、バンコクを覆う分厚い雨雲の上にいるのだ。そしてそこは常に晴れているのだから。
 20分が経った。その間に離陸したのは1機だけだった。定刻を過ぎた台北行きのエバー航空は、機体の整備に時間を要するため、出発は1時間20分後になります、と言うアナウンスが、繰り返し流されていた。
 自動ドアをくぐった彼女は、グレーの細身のスーツに、薄く明るいモスグリーンのブラウスで小柄な身体を包んでいた。ぴしっと伸びた背筋で、左手にハンドバッグを提げ、右手でスーツケースを引いていた。僕は、軽く左手を挙げて、存在を知らせる。
 彼女が僕の姿を認め、その瞳の力をふっと緩めた。彼女は僕に、僕は彼女に向かって歩み寄り、言葉の届く距離になる。
 「雨、だったわね。それも見事に大雨」と、彼女は言う。
 「そう願ってたんだ。昨日の内に、短冊に書いて庭のマンゴーの木に吊しておいたからね。意外に叶うもんだ。ちょっと降りすぎてる感もなきにしもあらずではあるけれど」
 短い髪の毛を全体的に柔らかく左側に流している。ほどよく整えられた眉は、どうしてもごくわずかの作為を感じさせる。アイラインはその二重まぶたによりくっきりとした陰影をつくり出し、チークのほどよい朱色は健康的な明るさを発散させ、艶やかな赤い唇に描かれた緩やかで大胆なカーブは完璧だった。間近で見ると、スーツには細く黒い縦のラインが走り、襟元にはステッチが縫い込まれていた。
 「かわいいね」と僕は言う。
 正直な感想だったが、それとは別に、どことなく近寄り難さをも感じさせる。昨日までとはまるで別人のようにさえ見える。
 「見事な戦闘態勢だ」と、僕は見えない壁を壊せないものかと、努力を試みる。
 「仕事ですもの」と、彼女は事も無げにかわす。
 「首にスカーフをまとえば、キャビンアテンダントに見えそうだ」
 少し間が空いた。彼女が何かを考えている。そしておもむろに口を開いて言った。「お魚ですか、チキンになさいますか?」
 「は?」
 「それっぽくない?」
 「何がさ?」
 「だから、キャビンアテンダントよ。食事を配ってるところなんだけど」
 「君の冗談は、いつだって分かりにくい……」と、僕は笑った。彼女もふふふと微笑んだ。だいじょうぶだ、別人なんかじゃないと思った。
 スーツケースを代わりに持とうと手を差し出したけれど、彼女は別にいいわよと言った。
 「チェックインを済ませてくるわね」
 彼女は、ゲートで航空券を示してチェックインカウンターの中に入る。それまで右手で転がしていた青いサムソナイトを持ち上げて、X線検査の係員に手渡した。
 さて、僕は出口の側で待っていようかと、足を踏み出そうとしたその瞬間だった。僕は、ふいに世界から遮断された。今度は、雨のせいではなかった。コンベアを流れ、金属の装置に吸い込まれていくスーツケースの青色が、僕を4ヶ月ばかり前に運び去った。
 やはり、僕は知っている。
 僕は、このスーツケースを見たことがある。そして、そこに巻かれた赤いベルトもだ。同じスーツケースはよくあるかもしれない、だからこそ人は、ベルトを巻いてよりはっきりと自分の物だと識別できるようにするのだ。ベルトの色までが同じだというのは、偶然を通り越している。
 台北行きのエバー航空は、機体の整備に時間を要するため、出発が3時間遅れます。トンネルの向こうで鳴る汽笛のように、遠く引き延ばされた音だった。どれがタイ語でどれが中国語でどれが英語なのかの区別がつかない。
 もはや、記憶が映し出す映像だけしか見えなかった。デジャヴュ、いや違う。確かに僕は、このシーンに見覚えがある。
 僕はまるで意思を持たない泥人形のようにそこに立ち尽くした。足はぴくりとも動かなかった。心臓は激しく脈打ち、音を立てて血が巡った。身体の隅々に行き渡った雨の粒子が、突沸したみたいだった。

* * * * * * * * * * * *

 「世話になったな。まあ、また近い内に来るよ」
 「寺院を見物したり土産物屋に案内したり、そういうことを世話って言うんじゃないかと思うんですけどね。その意味では何にもしてません。こちらこそ、色々とご馳走様でした。次こそちゃんとガイドブックでも読んで、観光もしてほしいもんですね。酒を飲んでるだけじゃ、バンコクじゃなくてもいいじゃないですか」
 「わかった、わかった。考えとくよ。しかし、すまなかったな。最後まで荷物持ちさせてしまって。助かったよ」
 スーツケースの他に、大きめのボストンバッグ。それに、二重にしたデパートの紙袋が4つ。一体何をこれだけ持ち帰るのかと尋ねたら、ほとんど全て食料品とのことだった。ずいぶんと食べ物が気に入ったらしい。前回よりも、買い物の量が増えている。
 僕はふと思いついたことを口に出す。「ところで、まさかとは思いますけど、ナンプラーのボトルを機内預けの荷物に入れてないでしょうね」
 「1リットルが3本、スーツケースの底だよ」
 「それ、やめといた方がいいです。僕の友達で、帰宅してカバンを開けたら、着替えから土産からもう全てナンプラーの匂いが染み込んで、泣くに泣けなかったっていうのが一人いるんです。ボトルにヒビが入ってたそうですよ。悪いことは言わないから、手荷物にするべきです」
 重たいから面倒なんだが、と、ぶちぶち言いながらも、いったん壁際に寄ってスーツケースを横に倒し、赤いベルトを外し、鍵を開け、底から3本のナンプラーを取り出した。15ゲームのように、その上部にあったグリーンカレーやトムヤムクンの素が空いた空間に詰められた。そしてそこにできた隙間には、紙袋に入っていた数種類の乾麺が収められた。
 そして、先ほどとは逆の手順で、まず3カ所の鍵を閉め、真ん中のナンバーロックをぐるぐると適当な数字に回し、蓋を閉じた上からベルトを回して、ぱちっと小気味よい音を立ててプラスティックの留め具を締めた。
 「じゃあ、僕は向こう側にいますね」
 「オッケー。ギリギリまでどこかでビール飲もうぜ。ちょっとだけ待ってな」
 「並んでますよ、カウンターの前。あと1時間切ってるし、そんな余裕ないんじゃないかな」
 「馬鹿言うな、俺はエコノミーなんかに乗らないんだよ。貧乏旅行してた時代じゃないんだ。絨毯の敷かれたあっちのカウンターで手続きして来るから、すぐだよ」
 彼は、ゲートで航空券を示してチェックインカウンターの中に入る。それまで右手で転がしていた青いサムソナイトを持ち上げて、X線検査の係員に手渡した。
 そして、滑走路が見渡せるレストランで、最終の搭乗案内で彼の名が呼ばれるまで、本当にぎりぎりまで僕らはビールを飲んだ。彼は、これも勘定をもってくれた。

*  *  *  *  *  *  *  *  *  *

 目の前の今と、4ヶ月前の夜の記憶とが錯綜したのは、時間にすると30秒もなかったのではないだろうか。視界には、セキュリティチェック済みのシールが貼られたスーツケースをカウンターで預けている彼女の横顔が見えた。
 意識は戻っても、僕はむしろより深まった混乱の中にいる。チェックインカウンターを囲むフェンスをぐるりと回り込むように歩きながら、なぜなのだろうという疑問と、もしかしたらという推測と、いや、だけどという三角形が、止めどなく頭の中を回る。
 前から走って来た幼児が、僕の足にどすんとぶつかった。その子も前を見ていなかったのだろうけれど、僕は何も見ていなかった。その泣き声に、意識が引き戻された。僕はしゃがみ込み、べそをかいている当人の目の前で、だいじょうぶかいと声をかけた。ふいに、自分がずいぶんと優しい人間になってしまった気がする。
 荷物を預けて身軽になった彼女が、搭乗券を手にして出てきた。左の手首に巻かれた細い銀色の腕時計をちらと見て言った。
 「もうちょっとだけ時間だいじょうぶだから、お茶でもしない?」
 エスカレーターで一つ階を上った喫茶店の片隅に向かい合って座り、彼女はココアを、僕はシンハビールの生をグラスで頼んだ。
 「これ、よかったらこの週末のお礼にどうぞ」
 彼女はそう言うと、ジムトンプソンの細長い袋を渡してくれた。ネクタイだった。紺色の地に、象の柄が黄色で描かれていた。自分では決して選ぶことのないデザインだ。
 「ありがとう」と、返事をしながらも少し戸惑う。「これは、何て言うかな、ずいぶん可愛すぎない? 僕の目には、かなりファニーに映るんだけど」
 「そうよ。明るく可愛い取り合わせが、あなたにはよく似合うんだから」と、くすくす笑いながら言った。
 僕はビールを一口飲んだ。辺りは空港の喧噪に満ちていた。スピーカーからは、聞き慣れない航空会社やそれらの行き先の地名が流される。
 彼女は、砂糖を少しだけ落として、スプーンでかき混ぜた。彼女は、緊張すると甘いものを口にする癖があった。
 「あのね」と、彼女が口を開き、何かを切り出そうとした。「一つ、知っておいてほしいことがあるの」
 「それは、僕が知っておくべきことなんだろうか」と、僕は訊ねる。
 「そう思うわ」
 僕は首を振って遮った。そして、言うべきかどうしようかずいぶんと迷ったけれど、どうしても言わずにはおれなかった。頭の中の三角形が、急に鋭い鋭角を描いて口から飛び出したようだった。
 「次はさ、彼と一緒においでよ」
 形の良い彼女の唇が、わずかに開かれた。そこから漏れ出たのは何かの言葉ではなく、短い吐息だった。
 足にぶつかって涙を流した子どものことを、心底羨ましく思った。僕も、泣けるものならば泣き出したかった。でも、何かが身体のずっと底の方に固まっていて、正しい感情の流れを妨げていた。
 彼女は白いカップをかちゃりと音をたててソーサーに戻した。僕は、グラスの底に半口分ばかり残っていたビールを飲み干した。
 「やっぱり、分かってたのね」
 真っ直ぐに僕の目を見て彼女は言った。僕はこわばった筋肉で、かすかに肯いた。
 「彼が、来月にこちらに来たとき、ちゃんと話をするつもりにしていたの。でも、私の口から伝えるべきだったのね。3日前のあの朝に、まずちゃんと話しておけばよかった。今まで黙ってて、本当にごめんなさい」
 「先輩、そのことのためだけにチケット取ったの?」
 「そうよ。『俺がちゃんと言う。それが一番いいんだ』って。最初は私のことを気遣ってくれてるんだと思ってたけれど、本当はそうじゃないのよ。でも、結局私がそんな思いやりも駄目にしてしまった」
 何を言うべきなのかも、どういう表情がふさわしいのかも分からず、僕は押し黙った。心臓の音が、やけに大きかった。
 僕は手を挙げてウェイトレスを呼び、ビールをもう2杯持って来てもらった。
 すぐに戻って来たウェイトレスは、空になった僕の目の前のグラスを下げ、そこにグラスを一つ置いた。その後で、もう一つのふさわしい置き場を探してしばし戸惑っていた。カップには、まだココアが半分以上残っている。結局、カップの右隣に紙製のコースターを敷き、その上にコトンと乗せた。
 「最後に、一緒にこのビールを飲んでくれないかな」と、僕はできるだけ朗らかな声を出してみた。実際の発音を聞くと、ガラスにFの鉛筆で文字を書いているような気分がした。
 彼女はしばし考えて、首を横に振った。
 「ごめんなさい。私はこれから仕事なの」
 そして、左手を伸ばしてグラスを滑らせ、僕の側に寄せた。僕の目の前に、細長いビアグラスが2つ並んだ。グラスは均一で微少な露に覆われている。泡が幾筋か、金色の液体の中を立ち上っている。
 僕は無言のまま、冷たい2杯のシンハを飲み干した。どちらも、味なんてなかった。
 喫茶店を出て、出国審査場へ向かった。僕は彼女のすぐ後ろをついて歩いた。
 入り口の所に着いた。ここから先は、パスポートと搭乗券を持った人か、もしくは正しいIDカードを掲げた人しか入ることはできない。
 「覚えておいて。彼も私も、本当にあなたのこと好きよ。
 それに、バンコクもとても気に入ったわ。今まで何度か来たけど、違う街に思えるほど楽しかった。昨日の夜、屋台でご飯を食べながら、こんなに美味しい料理があるんだって、嬉しくなった。
 だから、あなたさえ良ければ、本当に次は二人で遊びに来ると思う。それでもいい?」
 僕は考える。良いも悪いもなかった。
 「それには、一つだけ条件がある。今度こそ彼が観光してくれるならば、歓迎する。それでどうだろう?」
 「帰ったら説得しておくわ。とっておきのガイドなんだからって、ちゃんと伝える。船の上で色々と話してくれたこと、とても興味深かったわよ」
 じゃあ、行くねと彼女が言った。僕はうんと肯いた。
 列に並び、順番が来て、彼女が差し出したパスポートに、制服姿の職員はつまらなさそうに出国のスタンプを押した。
 僕はそんな様子をずっと目で追っていた。
 最後にこちらを振り向いた彼女は、胸のところで小さく手を振った。口の形は「またね」と言っていた。だけど、もしかしたら、それは「さようなら」だったのではないだろうかとも思う。


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