真夜中の来襲

 無性に寝苦しい。夜中の3時を回ったあたり。脳は、睡眠のただ中にあった。
 エアコンがついているから、暑いわけではない。辺りは深閑としていて、何か物音に妨げられているわけでもない。ぼんやりと、理由の見当たらない、妙に不可思議な気持ちの悪さの中、暗闇に目を開いた。
 自分が何をしたいのか、何をしなければならないのか、うまく把握できない。思考も感覚もまだ眠りにすっぽり包まれている。
 それでも、僕はむっくりベッドから起き上がった。眠っている母親を起こさないように、静かに浴室の電気をつけ、そっと扉を閉め、便座に腰掛けた。
 眠気が、僕の全身を心地よくくるみ始めた。腰掛けたまま再び目を閉じ、うとうととした瞬間だった。
 猛烈な勢いで、まるで滝のように、液体が腹を下って外界に出た。堰を切ったような流れと同時に、ものすごい力で腸が締め付けられるように痛む。呼吸すらままならないほどに。
 この期に及んで、否が応でも覚醒した。
 経験というのはありがたい。異常な状態であっても、初めての体験ではない。
 「ああ、何か食べ物に当たったんだな。ま、しばらくつらいが、死にはしないだろう」というどこかしらの安堵感も心の底に力強く存在した。
 旅行の最中に、体調を崩すのは、何も今回が初めてではない。
 鈍痛、放出、安堵。知っているはずのこのサイクルを何度か繰り返す内に、だが次第に分かってきた。ここまで強烈なやつは、未だかつてなかった。
 トルコのギョレメでは丸一日動けなかった。そう言えばインドでは、アグラからジャイプルへ向かうバスの中でも、かなり大変だった。今は、トイレがあるだけ、ずっとましだ。
 しかし、悠長に追憶していられるのも、ごくわずかの時間に過ぎなかった。再び激痛が、腹を締め付ける。だが、出るべきものは、水分すら残っていない。代わりに、胃液が、口から飛び出した。しまいには、それすら途切れた。ただただ、上と下からの排泄欲求だけが、行き場をなくしてより激しく暴れ回る。
 声にならない声が、喉を切り、明るい色をした血を吐いた。
 立ち上がる気力もなく、その場にいると、部屋の電気がついた。そして、母が扉をノックする。
 「ちょっと、あたしも」
 同じ症状だった。
 しばらく、交代でトイレを占領した。

 ようやく、多少なりとも落ち着きを取り戻し、ベッドに身を横たえる。
 どうやら母親の方がまだましなようだ。彼女のカバンに入っていた抗生物質をもらい、枕元の水で飲む。しかし、腹痛に端を発した全身のどうしようもない気怠さと不快感は、未だ僕を捉えて離さない。呼吸が荒い。そして、その行動がより肉体を消耗させる。
 僕はかすれた声で言う。「痛み止めあるやろ、それもちょうだい」
 息子の姿を目の当たりにした母は、しかし何たることか、薬を出し渋る。
 「頓服って、あんま飲むと身体によくないねんで」
 ……。
 いや、待て。「あんま」って、まだ一錠も飲んでないやないか。よしんば何かしら副作用が発生するのだとしても、そんな心配よりも、とりあえず目先の危機をしっかり認識してくれ。オレはかなり苦しいねん。あんたのその妙な親切に、適切に反応する元気すら、まったく枯渇してしまっているのだ。
 「ええから、とにかく、薬……」
 這々の体で、むしり取るように白い錠剤を飲む。
 間もなく、これで、少し落ち着いた。
 彼女の薬嫌いは、けっこうなもので、そのポリシーは、自分が育てる対象にも適用されてきた。子ども時分の僕は、そもそも病院に連れて行かれた記憶どころか、薬を服用した記憶がほとんどない。とにかく、安静に寝てれば治るんだ、というのが彼女の信条だった。
 まったくの余談になるが、会社勤めを始めた頃、風邪をひいて医務室に行った。そこで渡された解熱剤というものを飲んだところ、てきめんに熱が下がり楽になったことに、僕は半ば驚愕した。なんて、世の中にはすばらしいものがあるのだ、と。それまでの20何年の人生で、何度か病気で苦しい思いをしたとき、もしかしたら適切な薬があれば、それほどつらい思いをせずにすんだのかもしれない。なぜ、僕はこれまで薬を飲むことをしなかったのだろうか。そう自問したとき、答えは自ずと明らかだった。
 その答えの張本人が、カバンからごそごそと手帳を取り出す。何だろうと思ったら、あるページを開いてぶつぶつ言っている。
 「これ、前回の旅行の帰り、検疫の黄色いカードに書かれてるの見て、写しておいてん。役に立つかなと思って」
 そのノートの見開きの左側には、日本語で各種の身体症状が。その右側には、流麗な筆記体で対応する英語が記されている。
 「腹痛……abdominal pain」「頭痛……headache」「発しん……rash」
 これくらいは、まだよいだろう。と言うか、わざわざ書かんでも知ってるやろうが。だが、彼女のその単語帳は、次第に重篤な度合いを深める。
 「けいれん……convulsion」「呼吸困難……difficulty in breathing」
 仮に、本当に呼吸困難に陥った際、悠長にこの手帳を開いて、医者に説明をするつもりであったのだろうか。けいれんにせよ、呼吸困難にせよ、他人が見れば症状は明らかだろう。それに、その状態に陥った当人にしてみれば、説明している余裕なんか、どこにもないだろうに。
 何を思って検疫質問表から写し取り、そして今ここで開くのだろう。
 「検疫って、英語でquarantineって言うやろ。なんでか知ってる?」
 何をまた唐突に言い出すのだ。
 母は続ける。「ローマ時代にな、外国から来た船を、検疫のために港の外で40日間とどめておいてん。せやから、ラテン語の数字の40を使って、今でもquarantineがそういう意味やねん」
 なるほど、勉強になった。しかし、僕の苦しさの緩和にはさほど役立つわけではないのだが……。

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 ようやく一夜が明けた。まだまだ低調である。腹痛や下痢は収まったものの、あまりに体力を使い果たしてしまったため、歩く事にすら困難さがつきまとう。
 正月が明けた町は、昨日までのあの賑やかな状態が嘘のように、整然と機能し始めていた。僕らはかろうじて朝食に、目玉焼きの黄身だけをつまみ、こういう時だけ飲みたくなるコーラを飲んだ。一口飲んだ母が言う。
 「20年ぶりやわ」
 前回の体験は、コーラが日本に上陸したときのことではないのだろうか。
 荷物を片付け、空港へ向かった。
 シットウェー空港の出発口では、なぜかチェックインの後、男女別の扉へ案内されて、検査場へ。別段、服を脱いだりするわけでもなく、おざなりに荷物のチェックと、名前の確認。
 エアコンどころか、天井の扇風機でさえぴくりとも動かないロビーのベンチで、僕も母もぐたっと横になる。呼吸は、相変わらず常より早い。そして、そのせわしない呼吸活動がは、飽くことなく体力を奪い続けている。

搭乗券
 僕は一度外に出て、空港の前の売店にコーラを買いに行った。なぜだか、体力が落ちているときにも、コーラなら飲めるような気がする。それなりに冷えた甘ったるい炭酸を舐めるようにして口に入れる。べったりした甘さがありがたい。
 しかし、疲労の度合いは深く、たかだか一本を飲みきることすら能わなかった。青白い顔を仰向けにさらしたまま、ぐったりと飛行機を待つ。
ヤンゴン・エアウェイズ
 馬に翼が生えたら、天馬ペガサス。では、それが象の場合は何と呼ぶのだろう。ヤンゴン・エアウェイズのマークは、黄色い丸に、鼻を高々と掲げた白い天象だった。HK512便は、サンドウェを経由してヤンゴンへ向かった。眼下のベンガル湾の青さが輝いている。

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 ミャンマーの首都、ヤンゴン。この旅の最後に、僕が予約したホテルは、「トレーダーズ・ホテル」。シャングリ・ラの系列。
 最後くらい、母親にもゆっくりしてもらおうという、それなりの親切心からだった。旅行代理店からの勧めもあって、取った部屋は、「デラックスタイプ、パゴダ・ビュー」
 シー・ビュー、レイク・ビュー、シティ・ビューというあたりはなじみだが、パゴダが見渡せる部屋というのは、世界広しと言えどもなかなかないのではなかろうか。首都の中心に、抜きん出た高さでそびえるトレーダーズ・ホテルにあっても、わずか全5室しかない、貴重な部屋。
 空港から乗ったタクシーはエアコンがなく、午後の日差しの中を窓を開けて走った。だが、往来の至る所で、まだ水かけが続いていた。そこを通る度に、窓を閉め、温室のような空気に耐え、ようやくホテルに到着。
 ドアをくぐった瞬間、エアコンが心地よかった。フロントでバウチャーを示し、ポーターが我々のカバンを部屋まで運ぶ。16階の部屋の、大きな窓の向こうには、こんもりした小山の上に、巨大な黄金のシュエダゴォンパゴダが輝いていた。

パゴダ・ビュー
 見下ろす道路には、日本のバスが走っている。実家の近所を走る市バスも見た。緑色の京都市バスも走っている。もしかしたら、かつて僕が乗ったことがある車両かもしれない。
 蛇口をひねると、熱々の湯がほとばしる。交代でじっくり入浴。文字通り、生き返る心地だった。
 だが、奪われた体力と体調は、そう簡単には戻ってこない。それほどに昨夜の被害は甚大だった。ベッドに転がり、何をする気もわかないまま、ぼんやり寝たり覚めたりを繰り返すよりない。
 ここまで来ればという安心感も手伝って、体力は微々たる速度なれど、回復傾向にあった。多少、食欲も出てきた。
 基礎体力が物を言うのだろうか、母親の方が復活が早い。ルームサービスのメニューを眺め、焼きそばを注文。運ばれて来たそれは、普段でも少し躊躇しかねないほど、油がたっぷり用いられいてた。しかし、母はゆっくりであるものの、それなりに美味しそうに食べている。僕は一口だけもらって、敗残。とてもではないけれど、今の状態でこんな油っこいものは腹に収まらない。
 運良く、このホテルには日本食レストランが入っている。空腹に耐えかね、相変わらずの遅々とした足取りではあるものの、母を部屋において、一階のその店へ向かった。
 海外旅行に出て、ホテルの日本食を食べるとは……というこれまでの自分の軌跡をすべてひっくり返してしまうような自身の行為に、後ろめたさを感じながらも、それでも僕は、メニューを開き、熱い茶をすすった。
 もちろんだが、あっさりしたものにしか食指が動かない。
 注文したのは、「ヒヤヤッコ」と「コールド・ソバ」の二品。これを時間をかけて、なんとか腹に収めたおかげで、ようやく持ち直してきた。
パゴダ・ビュー夜景


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