春のはじまり

 三連休の初日、土曜日の昼前。熟睡していた僕を起こしたのは近所に住む友人からの電話だった。カーテンと窓を開くと、なるほど彼の言うようにものすごくよい天気である。「天気がよいから」彼は「どこかへ行こう」と言い、僕は「ビールを飲もう」と言った。そんなわけで、武庫川の河原でビールを飲むことに決めた。
 香港の男人街で買ったTシャツを着て、ネパールのポカラで買った白い綿の上着を羽織る。読みかけの文庫本と財布をラオス土産にもらった布のカバンに放り込む。郵便受けをのぞいたら、バングラデシュを旅行中の人から絵葉書が届いていた。
 自転車で静かな街を走ると、暖かな日差しの中、沈丁花の匂いがする。辺りを見回しても、どこに花が咲いているのかは見つけられない。ふいに甘い匂いが現れたかと思うと、あっと言う間に通り抜けてしまう。所々に、春を形づくる花の匂いの層が存在してはいるが、それぞれが交わりあって全体を覆うにはまだまだ物足りない。春は始まったばかりなのだ。
 堤防へ上がる階段がたまたま工事中で、仮の歩道として用意されている土の上を自転車を押して上がった。そう言えば子どもの頃には、冒険心から道ではない場所でも敢えて自転車で走ってみたものだ。すっかり忘れていたけれど、そんな記憶とそれにまつわる心の高まりが僕をとらえた。
 河川敷に腰を下ろし、缶ビールを開ける。これは少年時代にはなかったことだけど。
 右の耳のヘッドフォンからはいつものα-STATIONの番組を聴く。左の耳で彼の話しを聞き、どうでもいいような内容の会話をする。別段目的があって会ったわけでもない。お互いに暇で、そして天気がよかったからだ。 最初は腰掛けていただけだが、そのままごろりと横になる。
 川の水は滔々と流れ、白い水鳥が羽ばたく。ぼんやりとしてはいるが雲のない空には、虹をデザインされたJASの機体が大阪空港を離陸し高度を上げつつあった。僕らの右手5メートルほどの所で、二人の若者がギターを鳴らし、歌を練習している。キャッチボールをしている親子の手から白いボールがこぼれ、川にはまった。なんだかスピッツの歌にでも出てきそうな情景である。
 さらに、ビールを飲みポテトチップスを食む。
 しかし、日が傾くと川を渡る風が身体を震わせる。対岸に焚き火が見えた。腰を上げ、とめておいた自転車に乗り込み橋を渡る。作業着を来た小柄な老人が火を焚いていた。一言断ってから、ありがたく手をかざす。


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