週末深夜のバー
大人になるってなんだろう。今さら自分は子どもだとはさすがに言わないけれど、かと言って大人であると堂々と宣言するのも憚られる。大学に入った時、二十歳の誕生日を迎えた時、卒業した時、社会人と呼ばれるようになった時、そのどれもが未だ決定項にはなっていない。あるいは仮に将来結婚したとしてもそうは思えないのではないかという心配さえある。
それでも、いくつかのあるべき姿というものを漠然と抱いている。その一つ、バーで一人で飲むということ。もちろん村上春樹作品に登場する「ジェイズ・バー」に色濃く影響されているものだ。主人公はそこでビールを飲み、しばしば鼠と呼ばれる友人と語り、中国人のバーテンジェイはグラスを磨きジャガイモをむいている。
ラベルをこちらに向けたとりどりの酒瓶が棚にずらりと並んだ光景というのは、それだけで心が踊るものだ。いずれも僕が指さすだけでグラスに注がれて目の前に登場する可能性を等しく持っている。純粋に自分のためにそれを実現させるというのは、大人としての行為であり格好良いと思われる。そこには例えばデートの相手と酒を飲んでいる時のような緊張感や欲望やもどかしさなどの一切の制限が排除されている。残されているのは自身との対話だ。
大学時代の友人とちょっと飲もうよということで目に付いた看板に誘われて入った、そして気に入ったバーがある。
活気があるとは言えない駅前に建つ小さなビルの狭い急な階段を3階まで上がる。共同トイレのすぐ横にある扉を押し開くと、静かに抑制された「いらっしゃいませ」という声がかかる。たいていの場合、他の客はいない。これまでの経験では、僕の他に二人というのが最大だった。5、6席ほどのカウンターと小さなテーブルが二つ。
白いシャツに黒いベストを羽織り、きりっとした目つきをしたマスターがいる。彼は、中国人ではないが、昼間はホルンの奏者でもあるそうで、なるほど片隅には彼の商売道具が飾られている。客のいない時には、しばしばその場で練習しているのだそうだ。思うに、たっぷりとその時間はあるのではなかろうか。
彼も相当のピッチで棚に並んだ酒をストレートでグラスにあけてゆく。あるいはハイネケンのサーバーから自分用に注ぐ。
一線を越した酔いは無様だ。しかし哀しいかな、夜が更けるにつれ頭の片隅で微かに鳴る警鐘もさらなる一口のアルコールと共に飲み込まれてしまう。次の一杯を何にしようかと物色し始めた自分は既に憧れていた大人の姿からはかけ離れている。自分が自分を猶予している。モラトリアムはこの酔いが覚めるまで続く。本格的に酒を飲み始めて7年目、何も成長しちゃいない。
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