しめやかに息を吸う

 家族にちょっとした祝い事があって花束を買った。一年ぶりだ。前回は友人の結婚祝いのためだった。一般的に人に贈る物は形に残らないものを、と考えているので花束というのはその主義にかなう。また、それでいて意味のある選択でもあると自分では思っている。
 梅田の紀伊国屋すぐにある花屋は、週末の夜ということで賑わっていた。店員におおざっぱな好みだけを伝える。具体的なアイディアを提示する言葉を持たないので、プロに任せた方が気楽である。切り花がとりどりに陳列されたケースのガラス扉を開き、彼女は的確に色を選び取ってゆく。そこから流れ出る空気は湿り気を帯びていて、そして外気よりも温度が低い。見えない水滴の中に、整頓された新鮮な緑の匂いが含まれている。
 温度と湿度で座標をとったなら、僕が好むのは多湿の領域で、一番苦手なのは低温低湿の象限である。
 海遊館という水族館が大阪港にある。
 久しぶりに行ったら、入場券に「10周年」とあった。大洋と氷の大陸を連想させる青から白への落ち着いたグラデーションの背景に、デザイン化されたイワトビペンギンの横顔が描かれている。中学生のときにできたばかりの巨大水槽を見物に行って以来、訪れた回数は10に近いのではないだろうか。部屋のコルクボードにその半券を貼っているが、留められた思い出が静かに融けてきそうな気配がする。
 水族館。切り取られたものではあるが、海の中を体感することが可能な空間。しかし同時に、海にも陸にも属さず、ただ水族館の風景としてのみ表現することのできる特殊性も持ち合わせている。時として奇妙な錯覚を感じさせるレンズのごとき分厚いアクリル板を通して、自分たちのものではない世界を限定された現実として漂う。抑制された光が水の青を導き、その場を映し出す。錯覚のためか青さのためなのか、目に見えぬほど微小な水の分子が肺腑を満たしているのを感じないわけにはいかない。それは館内の空気にわずかながら浸み出した海の残像なのかもしれない。
 ある友人が山田詠美の文章を「鋭い刃」と例え、僕は村上春樹の文章を「ひやりとした霧」と形容した。そんな文章を好きになったから皮膚で直截に感知することができる花屋や水族館が好きなのか、それともその逆なのか。
 生命の揺らぐひやりと湿り気を帯びた空気を吸いこむとき、心の奥底に静かな波紋が広がる。


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