010102

 いつもなら盂蘭盆会として行われる五山の送り火だが、今回は世紀の変わり目とのことで特別に火が灯された。京都に5年住んでいたにも関わらず見たことがなかったので、この機会をとても楽しみにしていた。大文字一つだけならば、白川今出川の疎水の辺りが最上の場所なのだろうが、せっかくだから出町柳へ。高野川にかかる河合橋からは「右大文字」と「法」を、賀茂川の葵橋からは「船形」を見て満足。
 その足で蕎麦屋へ。通っていた大学と下宿していた所とのちょうど中間あたりにあるお店。少しだけ並んで店内へ。かけ蕎麦に汗をかいたが、外に出て市バスを待っていると風に身体が冷やされる。
 初詣は八坂神社へ出かけた。車両通行止めになった四条通で、人波の中にいても例年よりとても暖かだった。携帯電話から117にかけてカウントダウンを実況している元気な若者のグループがいた。境内はあまりの人混みでおみくじをひくのはあっさりと諦める。終夜運転の阪急電車で帰宅。
 日本酒は蕎麦屋で飲んだ一合だけで、あとはビールとスコッチを日がな一日。年末にヱビスの大瓶一ケースを仕込んでおいたのだ。
 おせちらしきものは何も食べていない。お雑煮だけはつくった。昆布と鰹を贅沢に使っただし、具は鶏と水菜と白ネギとしめじ。鶏肉は少々焼いて脂を落として香ばしさを出す。吸い口の柚の香りが幸せだ。
 いくらなんでもお年玉を期待する年齢ではい。逆に妹から請求されている方だ。会う機会もさほどなさそうなのだが、振り込みにしてしまったら味気ないだろうか。
 最初に手にした本は村上春樹の「神の子どもたちはみな踊る」であった。「地震」をテーマにした短編の連作集。圧倒的な絶望は日常と密接にあり得る。けれど、耳を澄まし、目を凝らし、わずかながらでも歩き続ければ正しいポイントは現れるのだと語られる。降りしきる雪に周囲の音が吸い込まれる夜のように静かな物語たち。始めに読んだ時よりも高く評価できる一冊だと思った。
 ここ数年の年賀状は前年の旅行を題材にしていたのだが、今回はめずらしく干支を意識してみた。たぶん元旦にはどなたにも届いてない。いただいた中に、見覚えのあるしかし久しく目にしていない字で書かれた一通があった。瞬時に酔いが消滅した頭で、何度も文面を読み返した。解釈すべき言葉が込められているのではないか、と。けれども、年始の挨拶という以上の意味づけは見当はずれであり、僕は森の奥へ静かに立ち戻るべきなのだろう。それでも、ほのかな光に映し出された霧中の影は、時として実物以上に大きな像を結ぶということをその差出人は知っていたのだろうか。
 再びグラスにボウモアが注がれる。
 いつものFMは「おめでとうございます」という挨拶はあるものの、基本的には通常と同じ番組が同じ時間に流れているのでありがたい。ここ2年ほどなかなか聴けないDJの声が懐かしい。今年の目標とか初夢などのテーマでメッセージが募集されている。
 ここしばらくの自分の身の処し方については1年という単位ではあまり捉えていないので、さほど新規な感慨もない。だが、今年はそれらをより具体化していこうとは思っている。霧は晴れるだろうか。


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