あれから6年
大学1回生の冬のある日。前夜一緒に飲んだ自宅生二人が僕の下宿に泊まっていた。熟睡のただ中にあった早朝、巨大な揺れが襲った。一瞬にして覚醒。身体が飛び上がった、と内の一人が話していた。NHKをつけ、実家に電話をかけて様子を尋ねた。「大震災」なんて言葉は想像の範囲外にあったから、安否の確認というよりも「だいじょうぶだよね」という無事の追認の意味合いだった。応対した父親は、家族は三人とも何事もないが、棚からテレビも落ちるほどに散乱している。暗い中、家の中とは言え動き回るのは危険だからもう電話をかけなくともよいと電話口で手短に話しをした。
友人二人も神戸と西宮の人間だったから実家に連絡をとり家族の安全を確認した。
報道はこの時点ではなんてことがなかった。屋外にいた老人が電線に引っかかって転んだとかそれくらいのニュースが流れ、どちらかというと楽観していた。
伝えられる被害状況が時を追い、日を追うごとに拡大していったのは周知の通りである。その日、大学の食堂でテレビを見ながらどこまでこの数字は増えるのだろうかと思った。
幸いにして僕の身近な範囲では亡くなった人はなかった。それでも、知り合いの家族というふうにわずかにその範囲を拡大すると、悲しい話しはいくらでもあった。
実家の水道が止まり、飲料水と火を通した野菜を持ってきてほしいと頼まれた。しかし、ミネラルウォーターは京都の地においてさえ店頭からは姿を消していた。辛うじて在庫を見つけたのは大学生協の購買だった。八百屋で青菜を数種買い、鍋でゆでて水気を切って水と共に実家に運んだ。阪急の梅田は同じように大きな荷物を背負った人があふれていた。マンションの5階から見下ろすと、屋根に広げられたビニールシートの青があちらこちらで目に付いた。
ちょうどその時期は大学の試験期間だった。試験が終わると、大学でも組織された窓口を通じて僕は神戸へ出た。ヴォランティアというような意識がさほどあったわけでもなく、今思い返すとなぜその行動をとったのだろうかと僕の中での合理性を見出すことが難しい。
差し入れにと思って一升瓶を持っていったのだが、その夜周りの人たちと飲もうかと思ったら受付の人いわく「お料理に使いました」ときたのにはがっかりした。それでもどこからか酒は出てくる。たき火を囲み、そこらにあったベーコンのブロックなんかを焙りながら、集まった人どうしで酒を酌み交わした。三重在住だが、ニュースを見て居ても立ってもいられなくなったから自転車をこいで来たといういわゆる浮浪者稼業の男性。推薦で大学が決まり、電車を乗り継いで九州から来たという高校生。 電気が通じていないから星が冷たい空気の中に輝いていた。
僕がやったのは、各避難所(建物の場合もあれば、公園に敷設されたテントということもあった)を回り、畳の必要枚数を聞き取るということだった。畳を調達してくるのはまた別の係だったが、トラックで次々と運ばれてきた。ある場所で、内の一畳は死者のために求められた。やっぱり、最後は畳に寝かせてあげたいからね、という言葉に生まれて初めて身近に人の死を意識した。
僕がそこにいたのは、わずかに一週間だけだった。
しばらくの後、そこに集った人たちの写真展が開催されるという案内が送られてきた。参加した人は少なくとも一枚はその場で写真を撮ってもらったから、もしかしたら僕のものも展示されていたのかもしれない。けれども、気後れがして出向くことはなかった。
神戸港に面したメリケンパークの一部に、崩れた岸壁が当時のまま残されている。 街灯が傾き、破壊された石畳を海水が洗っている。非関西圏の人と神戸へ出ることがあったら、ここへ立ち寄ることにしている。
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