霧中にありながら
昨秋のソウル大元旅館で同宿だった人から、バイクで世界一周をしている人のホームページを教えてもらった。そこの掲示板への書き込みから阪口エミコという人を知った。彼女のような自転車の旅人はサイクリスト(あるいはチャリダー)と呼ばれる。彼女はパートナーと一緒に地球を走っていた。そして今は癌の治療のために帰国し、入院している。
彼女を紹介している「エミコの闘病を支援するページ」によると、表題が示すように、彼女は他者の手を必要としていてそこには経済的な援助も含まれる。
そのページ自体の作りは、センスがあるとか使いやすいとかの評価をするには難しく、書かれている文章も少なくとも僕の趣味とは相容れない。何気なくネットサーフィンをしていてここにたどり着いても、例えばこれで内容が日記や自分の趣味の話題ということであれば、目を留めることすらなく再びネットの波間へと泳ぎ出すところだ。
だけど、そうはならなかった。記述のされ方なぞ問題とならないほどに、そこに示されている内容は僕の関心を引くに十分であった。ビッグウェーブが僕を掴まえたのだ。
旅をする人はいくらでもいる。また、病に倒れる人も数限りない。けれども、阪口エミコはそんな中で明らかに際立った存在として眼前に現れた。理由と思われる個別性を積み重ねても僕自身にとってすら明確な説明とはなりにくいのだが、彼女の為してきたこと、あるいは態度や信条に大きく引きつけられた。
僕が興味を抱く人間というのは、覇気があり、莫大な可能性を秘めていて、なおかつそれを痛烈に感じさせてくれる人である。そして例えば阪口エミコがそうである。
もしかしたら公にしない方が美徳だとする見方もあるかもしれないけれど、僕は本当にささやかながら具体的な行動をとるに至った。
確かに逡巡はあったし、それについてもっと思いを巡らせるべきだという警鐘も聞こえていた。だいたいにおいて、説明のつきにくい大きな感情の揺れに従うというのは危険性を感じることが多い。しかもそれが今まで面と向かい会ったことのない「人のため」という分野においてはなおさらである。
けれども僕が自分のための理屈をこねて納得を得るまでの時間というのは彼女の現況改善には何ら役立たない。それは僕が僕のためだけに行うべきだ。10年かかって得るものがあったとしても、いかにそれが素晴らしいものであったとしても、意味にはならない。
たまたまその時、我が家に居候がいた。彼女は2年間かけてアジアから中東を周り、さらにはアフリカ大陸を縦断してちょうど帰国したところだった。僕の躊躇について話しをするとその旅人は、旅の途上で病気に罹るなんていうのはよくあることだろう(実際彼女自身も、アメーバ原虫にも感染したしデング熱と腸チフスを併発した経験もある)とした上で、でもあなたがそのように感じたのは「縁」であると言い切った。
それで完全に吹っ切れたわけでもないが、一つのステップになった。
そんなわけで、僕はもちろん阪口エミコの回復を願う一人であり、出来うることはしたいという希望があるからここにこうやって記述をしている。少なくとも何十人かの目には触れることになる。それが彼女の役に立つことにつながればよいと真剣に考えている。
けれども、やはりこの文章の主題は「僕は迷っている」という点にあるのだ。
世界一周中の青山さんのページ「RideTandem」
そして件の「エミコの闘病を支援するページ」
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