僕に詩は書けない

 酒を詠んだ詩人と言えば、とりあえず李白くらいしか思いつかない。でもそれは高校古典で習ったくらいのもので別段自分がそう感じたわけではなく、知識としてわずかに有しているだけだ。
 アブー・ヌワースという人の詩集を読んでいる。岩波文庫から「アラブ飲酒詩選」という表題で出ている。アッバース朝の最盛期に活躍し、奔放に放蕩に生きた人物だと巻末の解説にあった。彼もまた酒について言葉を尽くした偉人である。これは僕の実感として。
 手に取ったのはもちろんタイトルに目を奪われたからである。そして最初に得た期待感は、ページを繰るにつれより高揚した感動と共感へと導かれた。何せもう酒さえあれば、という信条で一貫しているのだ。ちょうど今は半分くらいまで読み進めてきたのだが、これから先へ行くのがこの上なく楽しみであり、同時にあまりのおもしろさ故に読み終わってしまうことの不安感にも苛まされる。
 太陽や薔薇よりも酒を賛美し、ラヴェンダーや睡蓮の咲き乱れる庭園を描写しても結局はそれを肴に飲み始める。彼が涙するのは、心をうつ感傷や美や人間性などではなく、ムハンマドの飲酒禁止令に対してである(それでも、鞭に打たれながらも飲む、と高らかに謳っている)。
 そしてこんな究極的なフレーズの数々。「朝起きたら、まず酒を飲め。」「もし酒が私の食べ物だったら、私は幸せだ。/食事を待たずに酒だけを飲んでいればよい。」「勤勉に暮らすことはやめて、怠け給え。/酒場にさしかかったら、立ち寄り給え。」
 あるいは「飲み友達は二日酔いが続き、/指に震えが来ている。」という書き出しで始まる「震える指」。そいつはそれでもやはり酒を欲しがり、自分も喜んで与える。その結果はこうだ、「やがて倒れてしまうが、彼は知らない、/大地の上に寝たか、部屋の中に寝たか。」
 恋人の立ち去った廃屋を訪れて失われた恋を嘆くことから始まる、というのが旧来の詩の手法であったとか。だがアブー・ヌワースは、そんな所へ行かず酒家を訪れるのだときっぱりと。これは形式主義の否定の表明であると同時に、僕には人生の警句としてすら読みとれる。それよりも酒を飲め、と。
 急に話しは千年ほど飛び、21世紀初頭の現在。 友人に詩を書くのがいる。一年ほど前、自身の詩集を一冊贈ってくれた。初夏の昼下がりに久しぶりにめくったが、おもしろかった。そして自明の事実として、僕に詩は書けないと認識した。別段、書きたいという欲求があった上での諦観というわけでもなく、ペンギンは空を飛ばないというくらいにあっけらかんとした事実として。
 僕は散文なら少しは書ける。そこにもしかしたら「詩的」な部分があるかもしれないが、それは一連の文章の中での表現であり、そこだけを切り取ってつなげたからと言って一片の詩にもなりはしないのだ。得られる・与えられる感情や情景が仮に同一のものだとしても、僕の手持ちに詩という方法は存在せず、辛うじて文章という手段が闇にほのめいているくらいだ。
 詩集「ジムノペディ」の中で、夏、湿度、火といった僕の好きな題材が描かれている「火送りの夏」。「これが青だろうか/青 だろうかと/私は夏を 見上げている」という最後の部分。僕が同じことをやろうとしたら少なくとも千字くらいは必要とするところを、詩人壬生平は実にたったの三行で読者にイメージを投げかけている。
 そこにあるのは潔さではないかと思う。過去を追慕し、失った恋を嘆き、壁に牛の糞を貼り付けるようにべたべたと文章を書き連ねる僕には詩は書けない。せめて先人の言に従って酒を飲む。


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