乾杯、ラガー

 「一番好きなのは?」と訊かれることがある。
 趣味を持つ人が多いワインや日本酒とは違って「とりあえず」を冠されてしまうビールが好きだと発言したら、しかたなく会話のつなぎにというニュアンスをこめて問われる。これまでは決まって「昔の、生になる前のキリンラガー」と答えてきた。得られないことを半ば自虐的に、半ば格好をつけて。でもこんなことを言っても、余計に会話は続かないだけだ。
 ラガーが状況のあおりを受けて生に変わってしまったとき、メーカーは「ただ熱処理をしていないだけで、味に違いがあるわけはない」と説明していた。そんなわけはない。ライバルを追いかけて芯の抜けた味になってしまったことに寂寞感を得たのを覚えている。明治・大正・昭和の復刻ラガーがキャンペーンの賞品になっとき、やっきになって応募した。
 「キリンクラシックラガー」が関西でも発売されたのは1週間ほど前のことだった。何を今さら、という気もした。これこそが「キリンラガー」であり、逆にこの数年店頭に並んでいるものが単に「ニューラガー」に過ぎないではないか、と。
 発売当日に親不知を抜いて、医者からアルコールは止められていたので、その翌日に飲んだ。大瓶と中瓶しかなく、僕が買いに行ったところでは6本のパックで売られていた。少ししんどい思いをして、駅前から家までの道のりを歩いた。
 当時の雰囲気を出すために瓶での発売らしいのだが、それならそうで表面がつるつるなのには違和感がある。衝撃の吸収をよくする手段として昔の瓶はざらざらしていたし、王冠の裏にはプラスティックではなくコルクが貼られていた。まあ些細なことではある、要は味なのだから。
 苦みが太い線のようにのどの奥まで通じ、そしてそれがしっかりと軌跡を残す。これだ、と思った。
 それほどビールに種類がなく、「キリン」「サッポロ」という社名で呼べばそれがすなわち一般的なそれぞれの銘柄を表していた時代。父親が飲んでいたのがラガービールだった。そしてそれは僕の根元的な記憶にも刻まれていたのだろう。ビールとは苦いものである、という一義的な定義付けが個人的には正しいものだと認識されている。
 世の中には種々のビールがある。日本の酒税法では発泡酒になるようなもの、例えばカシスの果汁が加えられていたり、副原料が麦芽の重量の50%を超えていたりするものだってきちっとビールだと思う。ちょうど僕が大学に入った頃から各社が季節ごとに様々なビールを発売し始めた。よく行くバーでベルギービールを知った。国境を越えるたびに、異なる味や温度のビールを飲んだ。村上春樹はビールをこの上なくおいしそうに描写していた。
 絶対的な評価を味覚に求めるのはあまり意味がない。炎天下の砂漠を歩き続けた上で飲んだのがスーパードライだったら、それはおいしく感じることもあるだろう。そもそも風邪をひいていたりしたらビールそのものを飲みたいとは思わない。
 手に入れることのかなわなかった物とようやくと再会したという状況は申し分ない。プラスαの評価を下してしまうというのも、ある意味仕方のないことだ。いや、むしろ状況を含んでこそ味なのだ。
 発売されて二度目の週末。次から次へと飲み込むだけでなく、興奮を抑えてじっくり腰を据えて飲もうという気になった。塩ゆでした枝豆、よく冷えた絹ごしの冷や奴、細かに切った生姜を散らした鯖の子の煮付け。正統なビールには正統なつまみを準備して、冷えたラガーをグラスに注ぐ。あわててはいけない。


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