目は口ほどに寡黙

 確か今使っているサングラスは、三本目になる。最初に買ったのは上海。市場のはずれの眼鏡屋で、「どこから来たの?」なんていう筆談を値段交渉に交えながら。狙いは香港エリートビジネスパーソンだったはずなのに、どう見てもB級香港映画のチンピラであった。それも二人組の、より間が抜けた方だ。
 そいつと共にしばらく旅をして、赤道も越えた。けれども、その先のどこかでツルが壊れてしまった。元の値段と使用量とを考えると、十分にまっとうしたのではないかと思う。
 二本目は梅田のロフトで買った。これは短命で、数日の後に神戸に出たときに置き忘れてしまった。思い当たる所へ電話で訊ねてはみたものの、行方は知れなかった。
 そして三本目。昨夏に、阪急百貨店でかなりの時間をかけて選んだものだ。幸いにして、年を越えて今シーズンも毎日かけている。日本は冬でも、出かける先がまぶしい土地ならば持っていく。
 コンタクトレンズや眼鏡には切羽詰まった必要性が明らかである。でも、サングラスはそうではない。なくてもそうそう困るものではない。かけ始めたそもそもの理由は至極簡単で「旅人っぽいからそこに憧れた」というだけだ。バックパック、バンダナ、サングラスというイメージは典型的ではあるが、引きつけられた。緯度の低い土地では必需だった、というわけではない。
 それがどうしたわけか、今の日常では手放すことができずにいる。ちょっと太陽光線の下を出歩くときにも、青みがかった薄い黒で目を覆っておくと楽なのだ。ぎらぎらする光を緩和することで、気分的にも、肉体的にも直截に負担が軽減しているような気がする。夕方なぞに自転車をこいでいるときには、目に飛び込む虫も防いでくれる。
 「ノルウェイの森」の緑は、サングラスをかけたのは急に髪の毛が短くなったことで「ものすごく無防備な気が」して「全然落ちつかない」からだと答えていた。僕のは彼女のように濃い色ではなく、そう遠くない距離からしっかりとこちら側を見たら瞳がぼんやり見える程度の色のものだ。
 他人を拒絶したり、あるいは周囲から自分を防ごうという意図は、僕の場合はとりたてて持っていないはずなのだが、色つきプラスティックの小さな二かけらが外界との間に生み出す距離感を心地よいものだとする感覚は否めない。これは、単に錯覚に過ぎないのだろうか。それとも、紫外線を含む太陽光を低減するだけでなく、交錯する視線をも和らげるのがサングラスというものなのか。
 そう言えば、本を読んだり映画を見たりするときのように、他者の非介在が前提になっている状況では、サングラスも必要とされない。宜なるかな。


戻る 目次 進む

トップページ