四代目
2年半で4個。おそらく、異常に早いペースだろう。なんのことはない、コーヒーサーバーを買った数である。そしてここから1を減じたのが、壊した数である。
昨夜、またやってしまった。洗った食器を乾かしておくための棚からグラスを取ろうとした手が包丁に引っかかり、落下した包丁が流しに置きっぱなしにしていたガラス製のコーヒーサーバーを砕いた。
さらに悪いことには、後始末していて左手の人さし指と中指を軽く切ってしまい、すうっと一筋の血がにじんだ。わずかに皮膚をかすめただけだが、ガラスというのは切れ味のよいものだ。それ以上触れない方がよいだろう、と酔った頭が判断をした。
別に毎回酔いのせいというわけでもない。洗っていて軽く蛇口に接触したら、当たり所が悪くてそのまま敢え無くなったこともある。
コーヒーサーバーというのは、僕の生活の中で使用頻度が最も高い台所用品の一つだろう。それはすなわち日常的に手の届く所にあり、つまるところは壊れる確率も高いということ。同じような環境はグラスにも当てはまる。これまでにいくつ壊したことか。
物を壊すということには、どうしたって罪悪感がつきまとう。けれど、ことガラス製品についてはそこに独特な罪の意識が混ざり込んでくる。
ガラスの残骸をひょいっと捨てるわけにもいかない。そうっと注意深く破片を拾い集め、紙袋に封入する。思いの外に被害は広範にわたるので、低い角度から目を凝らしてキラリと光る微小な屑を探し出す。ある程度の目処がついたところで、クイックルワイパーなり掃除機なりを取り出してさらに念入りに周囲を掃除しておく。
ある事物を破損したので適切に処理をするという、家事において起こりうる日常の一つには過ぎないのだが、上記したようにガラスの場合はその道のりが少しだけ暗くてしかも長い。特に、床の破片を探しているときがそうだ。それは、あるのかないのか明快な解答の得られない道のりである。見つかればあったことになるけれど、目に入らなかったからと言って確実に全てを拾い集めたことにもならない可能性も残る。
そういったときには、否が応でも自分の行為の意味を繰り返し自覚させられ「次こそはもっと慎重に扱おう」「コーヒーを飲み終わったらすぐに洗ってしかるべき場所へ納めよう」と反省の意識を芽生えさせる。これはガラスを割った罪に対しての独特の罰ではないかという気がしてしまう。
次回の不燃ゴミの収集に「割れ物 ガラス片」というようなメモを目立つように付けて、これでおしまいであればよいのだが、まれにずっと後になって足の指にちくりと痛みが走り、かけらが刺さっていることがある。許しへの道は遠い。
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