そして誰も……

 コンサートに出かけた。関西フィルハーモニー管弦楽団の定期演奏会。藤岡幸夫指揮による、シベリウス交響曲第一番。会場はザ・シンフォニーホール。
 この手の音楽に詳しい方からすると、ひょっとすると「なかなか渋い選択だな」という評価をいただけるかもしれない。僕のことを知る人間にしてみれば、間違いなく「何を勘違いして?」と呆れるに違いない。
 シベリウスと聞いて、僕が連想するのはその語感の類似性だけを拠り所にしたシベリアの凍った大地くらいのもので、せっかくS席に座っていたのに、舞台上の楽器の区別もつかない。弦楽器はおしなべてヴァイオリンの大中小にしか見えないし、吹奏楽器であれば縦笛か横笛かあるいはぐるぐるしたラッパであり、打楽器ならいずれも太鼓。唯一、その正確な名称が分かったのはトライアングルだった(でも、これもナントカトライアングルと言うのかもしれない)。
 知り合いのバーのマスターがエキストラで出演するというので、ちょっとした伝手を頼って招待券を入手し、興味本位から見に行ったのだ。その店内には、テーブル席の後ろの棚に淡い調光に静かに輝く金色のホルンが置かれていて、通い始めた頃に、それは別に飾りでもなんでもなく、彼の商売道具なのだと聞いた。
 でも、何も分からないなりにはよい体験だった。そこに集う人々が醸し出す空気は、普段では決して味わうことができないものだった。マスターの姿はオーケストラの後方に位置していたために、少々広くなり始めた額くらいしか目にできなかったにせよ、音楽は心地よく耳を抜け、そしてかのカラヤンが絶賛したという秀逸な反響の設備を有するホール内にはしばらく余韻が漂い続ける。ちょっとした非日常の愉しさと緊張感とがあった。
 後日、「指揮者が『よしっ!』ってえらい大きなかけ声と共に登場してきたのが印象的やったけど、そういうもんなん?」「いやあ、僕も思わず笑っちゃいました。まだ若い人ですからね」とやっぱりカウンターを挟んで会話をしていた。そのとき僕はラフロイグを飲んでいた。ちょうど、最後の一杯で、底の方に貯まっていたコルク片は彼の手によってていねいに一つずつ取り除かれていた。
 「でも、マスター、ホンマのところはどっちが表の姿なんですか?」と訊ねてみた。僕が見知っているのは、カウンターの中で氷を割ったり、グレープフルーツを搾ったり、シェーカーを小気味よく振る姿だった。彼は即座に「もちろん、昼間の方ですよ」と笑った。
 開店して4年が経った西宮北口のバー「ギグ」は、本日をもって閉店する。
 僕の周りから依るべき人や空間が少しずつ失せていく。どうしたわけかここ2年ばかり、ずっとそんな感じが続いている。


戻る 目次 進む

トップページ