蒸留所、再び

 アイラ島の蒸留所めぐりから3ヶ月と少し。今回はサントリー山崎蒸溜所へ行ってきた。以前から、行こう行こうと友人連中と話題にはしていたのだが、事前予約の電話が面倒で結局今日まで実現に至らなかった。同じ酒会社の見学でも、予約不要で桂駅前から送迎バス(ルプリン号)も走っている、キリンの京都工場は気楽なもので、学生時代にちょこちょこ通った。だが、現在は既に閉鎖されてしまっている。
 阪急電鉄の京都線特急は現在こそ茨木市や高槻市なども停車するが、僕が主として利用していたついこの間までは、十三(大阪市内)〜烏丸(京都市内)と二都間をノンストップで走っていた。目的地への最寄り駅である大山崎は、ほとんど頭の中にないも同然の駅だった。
 創業者、鳥井信治郎がよい水と空気とを求めたという山あいは、本当に静かな場所だった。山々で濾過されたよい水はすなわちウィスキーの根源であり、木津川、桂川、宇治川が近くを流れるため霧が立ちやすいこの地の気候は、熟成の間、貯蔵庫に眠る樽を適度な湿度に保つのに適しているという。
 訪れたのが土曜日だということ、さらには大規模な改修工事中だということもあり、稼働している様子を見ることは叶わなかった。蒸留の工程自体は、それなりには知識としてあるから、仕組みを学ぶというよりもその雰囲気を味わうということが第一義であった。
 それに、やはり、味わってなんぼは酒である。原材料の二条大麦を口にしたのも、ポットスティルの形状によるできあがりの味の違いの説明にうなずいたのも、そして仄暗い貯蔵庫に静かに深く眠る無数の樽の息吹に感嘆したのも、言うなれば行程の最後に用意された試飲で、より美味しく飲むためのものである。
 マザーウォーター(仕込みに使った水)で割った「山崎」が最初の一杯。貯蔵庫に漂っている冷涼な空気を味わったようだった。
 続いては「響」の水割り。ただし、これは口に含んで飲み込んだ瞬間、雑な酸味が舌に残った。極端に言えば、饐えたような後口だった。一緒に訪れた友人は、そんなことはなくやはり美味しいと言う。手を伸ばして、一口そちらのを飲んでみたら、確かに同じボトルから注いだはずなのに、まったく別物だった。混ぜる速度や、氷の形状や大小の取り合わせ、その他の素人目には感知できないような微妙な様相の違いのはずだが、明らかに出来、不出来が対照的な二杯だった。もしかしたらカウンターに立っていた二人の腕前の違いかもしれない。
 続いては、山崎と響とをトゥワイスアップ(氷を入れない水割りで、酒との比率が半々)で飲み比べる。響の方が明らかにうまい、というのが我々の一致した見解だった。
 だけど、これらのウィスキーは日本人の味覚に合う繊細な味を求めたという所期の目的は達成されているのかもしれないが、少なくとも僕個人について言えば、常飲したいかと問われると少し否定的な感じがしてしまう。例えば風邪ひきの場合などには、柔らかなこれがよいなと思われた。
 日本人の……と言う比較対照の概念は、ウィスキー後発の日本ならではの考え方である。アイラ島では、まずアイラの風土ありきで酒ができていたように思う。
 ただ、ご存知のように酒の味は特に味そのもの以外の要素に左右されることが多い。物語や思い入れや、雰囲気や状況やその他諸々の、舌でとらえることはできないけれど、明らかに大きな影響を与えるものたちの存在である。だから、僕はもう少し山崎に親しむと「山崎」を前向きに肯定できるのではないかとの気がする。そのためにも、近い内にまた足を運ぶことにしよう。


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