結婚しました姓が変わりました

 ぼつぼつと身の回りで、同年代が結婚したり婚約したりという話しを耳にする年頃になってきた。早いのになると、既に離婚までいった同級生もいる。
 僕自身はそのような予定どころか、そちらへの興味や願望がないので他人がそういう形で人生の一つのイベントを迎えたことに対して「ああ、そうなんや」であり、「おめでとう」と言うしかない。いや、実際におめでたいことだと心から思う。幸せになったらいいなあと願う。
 この国で結婚という制度を根底で規定しているのは、言うまでもなく「婚姻は、両性の合意のみに基づいて成立し」と謳う憲法24条である。両性ってことは、同性のカップルはどないやねんということはここでは置いておく。で、民法の750条。「夫婦は、婚姻の際に定めるところに従い、夫又は妻の氏を称する」
 おもしろいのは、「婚姻」そのものは民法では規定していないことだ。そんなこと、決められてる方が気色悪い気もするけれど。
 ここから先は、今さら言うまでもないことだけど、僕の話し。それも仮定に基づいての。
 仮定。僕がこの国で今の国籍を保ったままこの国の女性と結婚したとする。そうすると、法律に基づいてどちらの姓を選択しようかという話しが発生する。僕はどっちでもいい。むしろ、どうでもよい。
 こちらの姓を変えるとしたら、パスポートをはじめとした各種書類の変更といった具体的な手間と面倒が頭にまず浮かぶ。しばらくはクレジットカードで買い物をしたときや、旅行先でトラヴェラーズチェックを使うときなどに戸惑うかもしれない。銀行の窓口で自分の新しい名前を呼ばれても気付かないかもしれない。結婚して姓が変わりましたという連絡をしたときに説明を求められることもあるだろう。そういうときは「コインを投げて決めたから」という口上で納得してもらう他ない。でも、そうそう時間のかからない内に慣れることだろう。結婚するまでよりも、した後の方が長い時間を過ごすことになるだろうし。
 逆に配偶者が僕の姓を使い出したら、それは違和感を得る時期もあるだろうが、やはり遅かれ早かれ、少なくとも僕の側は、馴染むだろうと思う。
 人によっては「家」を持ち出す人もいるかもしれない。率直に言って、僕はそういうものによって語られる種々を煩わしいと感じるし、そもそも実感として皆無である。
 例えば、僕には妹が一人いるが(可愛げはあまりない)、彼女とはどうしたって血のつながりを感じないわけにはいかない事実が多々あるし、その実感と比べたら姓が変わるなどというのは氷山に魅入られたタイタニック号のようなもので、冷たい海に埋没する他ない。タイタニックと違うのは、沈んでしまったそれを嘆き悲しむ者がないという点だ。祖父母くらいまでなら具体的に思い浮かぶから、一族という範疇で捉えることは現実的だ。
 だけど、申し訳ないけれど、そこから先の方がどのような方でどこに分家して、本家はどこそこで、というのは想像力の乏しさかあるいは協調性のなさかもしれないが、すうっと現実性が色を失ってゆく。そんなことよりは、アイラ島のジョンストン家の血筋の方によっぽど興味がある。そこには、伝えられたラフロイグという現実的なものがあるからだ。だが、ラフロイグ蒸留所もエリザベス・ウィリアムソンという血のつながりのない女性を経営者にしたことで、現在においても大いに発展しているのである。
 人間がこの地球に生まれてからこれまでのことを考えると、現在に生きる一人の人間が双肩にしている祖先の数はいくらになるのだ? 考えるのも気が遠くなるほどの数字だろう。家、という概念で語られる構成員数なんていうのは、それからしたら誤差にもならない。
 とは言え、世の中には長時間歯磨きでギネスブックに載ることに情熱を燃やす人もいるくらいだから、何に価値を見出すかなんていうのは他者の考えの及ぶところではないけれど。現に、万世一系をウリにしている一族だっているくらいだし。
 じゃあ「現実的に」子どもができたらどうするんだ、という論が完全に抜けていることは承知だが、僕の現状に立った想像力ではとてもじゃないけどそんなところまで及ばない。ただし、溺愛するに違いないという予感はしっかりと胸の中にあるのだけれど。
 むしろ大切なのはそちらの方だ。

ちなみに人類発生が500万年前で、誰しも30歳で子どもをつくると無理矢理仮定したら、双肩にいる直系の一族の数は、(2+2^(5000000/30))*((5000000/30)-1)/2と、まあとんでもない数になる。直近の300年に区切ってみたところで、軽く5万人を越える。


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