そして、時は流れ
新しい季節は、昨日までとは違う空気を連れてやって来る。ここ数日、ふとした拍子に柔らかく香る風が鼻をかすめていく瞬間がある。春の訪れで芽吹く草花があるように、僕の心にも何かしらコトリと音をたてて予感させるものがある。漠然としてはいるけれど、胸に去来するそれは確かに心地のよい疼きに他ならない。そして、それは初春に固有のものだ。
何かを始めようというときには、圧倒的に肯定的な予感に包まれるが、そこには密やかな寂しさが不可分につきまとう。不安というほど具体的ではないけれど、ふいに冷たい空気が辺りをよぎるような。でも直後にはまた暖かな風に身も心も包まれている。
ちょうど8年前にも、僕は今と似たような感情にあった。そのとき歩いていたのと同じように、今日の僕も京都にいる。8年前は初々しい新入生として。これまでの達成感とこれから始まる日々への大きな期待を抱いていた。今日は、たまたま後輩の結婚式の二次会がいつもの居酒屋であるので、ついでだからと早めに出てきたのだが、空気の匂いと自分の心の揺れ方とがあまりに当時と似ていることに気付いて一人驚いた。
賀茂川と高野川の合流する辺りをバスから見下ろしながら農学部前のバス停で下車。受験生を応援する立て看が目に入る。
卒業以来一度もチャンスがなかったカレー屋で昼食。マスターが色紙にマジック書きしたメニューの構成が少し変わっていたものの、少し柔らかめのご飯と、さらりとしたルーの味はそのままだった。当時定番で注文していたのは中カツだった。中ジャンボサイズのカツカレー。ご飯はおよそ2合半の量。けれど、今日頼んだのは普通のカツカレー。これでも1合半以上あるのだが、十分だった。
店内には壁にも天井にも映画のポスターが貼られている。カサブランカや風と共に去りぬや風の谷のナウシカなどは以前のままだが、いくつかは最近のものになっていた。15人も入れば満員の窮屈な店だが、土曜ということもあって客は僕を入れて二人だった。油や埃が染み込んだ木造の店内に、ブラインド越しに弱められた昼の光が、記憶の中の情景と変わることなく沈殿していた。
お釣りを受け取りながら、「マスター、卒業して3年ぶりに来たんですけど、おいしかった」と言ってみる。彼は「覚えてる、覚えてる」と言ってくれたが、ほんまかいな。「またおいでよ」と言われたから「また来ます」と返事をして外に出る。
北部キャンパス正門横の喫茶店でコーヒー。使いこまれたスプーンに白い角砂糖が端正にのせられており、情景として美しい。でもその角砂糖は眺める対象としてしか用いられない。数人のグループが分厚い辞書をテーブルに置いて外国語の読解について議論を交わしていたり、大学の教官でしかあり得ないような髪型をした初老の男性が新聞の切り抜きに目を通していたり、何かのレジュメを間にして教え・教えられている二人の外国人がフランス語で会話していたり、隅の席の女性はカバーのかけられた文庫本を開いたまま伏せて両手のひらを右頬に当てて軽く首を傾げながら目を閉じていたり。 そこで僕は多くのことを懐かしみ慈しみながら白いiBookのキーをパタパタと叩いてこの文章を書いている。
そして夜。立会人の印鑑が押された婚姻届を掲げる二人に万雷の拍手がおくられた。参集した顔ぶれはそれぞれに少しずついろんなことが変わりつつある。時が流れるということの意味を痛感させられた。けれど、それは今宵の二人に象徴されるように薔薇の色をしているのだ。
新しい季節にふさわしく、僕も歩みを進める。
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