喝采

 とても久しぶりに新幹線に乗った。どうしたって国内長距離移動の行き先は東京が多いが、ここ数年はもっぱら飛行機。カモノハシ形のレールスター700系も初めての体験だった。シートベルトも不要だし、席の前後もゆったりとした間隔だし、大きな窓からは風景をたっぷりと眺めることができる。飛行機と比較して、とても楽だった。車内アナウンスの前に流れるメロディーは旅情を誘うに十分。
 身近な人間の死というものを僕はこの年齢まで直接には実感することなくやってきた。これは「幸いなことに」という語句でくくってよいものと思う。でも、そればかりで続くほど安易なものではない。僕らの世代に結婚や出産が身近な話題となってきたということは、一つの舞台を終える存在があるということでもある。80の誕生日を迎えたばかりの祖父が、末期の癌に冒されていた。
 久々に参集した家族と、広島駅から彼の滞在先へ向かう。ゴールデンウィークの始まりにふさわしい、よい天気であった。新大阪からわずか2時間に満たない移動でも、山陽地方の街の光は見慣れたものよりも明るく、新緑が美しく目に映える。
 再会した祖父は、既に声を発することも、自分で呼吸をしたり栄養を摂取したりすることも、そして排泄をすることもできない。人工呼吸器がプシュー、プシューと規則的な音を立てている。空気は開かれた気管へ直接に送られる。それを自分で取り外さぬように、両手が抑制されている。ベッドの縁のビニール袋には尿がたまっている。もそもそとした固形物が詰まらないように、看護婦さんが管をゆすっていた。点滴の薬品が入った袋に表示された成分を見て、妹が「必須アミノ酸が並んでいる」と、ぼそっと言った。
 本体は生命力を失いつつあるのにも関わらず、異質に変異した細胞は増殖を続けている。そいつが静脈を圧迫するために、上半身に水が貯まり、SF映画の特殊メイクのように膨らんだ顔をしていた。下半身は年齢に相応の痩身であるにもかかわらず。抑制を外して握った手も、はちきれんばかりだった。僕らは身体をさすり、語りかけるより術を持たない。近況を報告し、行きたがっていた東北旅行に一緒に行く約束をする。何度か東北へ行ったことのある妹が、地名を挙げ風景を語り、夏がよいからとすすめていた。
 祖母が「おじいちゃんね、『啓ちゃんはしょっちゅう外国へ行ってるけど、飛行機危ないけんのお』ってよく言ってたわ」と。旅先からの絵葉書は彼の目にどのように映っていたのだろうか。
 彼のもう一人の娘の一家も夕方にやって来た。このメンバーで顔を合わせるのは、祖父母の金婚式以来だった。「こうやって私たちを会わせてくれたのが、おじいちゃんの最後の仕事なのよ」という言葉は、少なくとも僕には無条件の説得力があった。
 今回、確かに分かったことが二つある。上は70代半ばの祖母から下は20代前半の妹まで、この血筋の女系は口から先に生まれてきたような人物が多いということ。そして、僕はおそらく禿げる心配をしなくてよいということ。横たわる祖父にそんなどうでもよいような話題も含めて語りかけていた。
 微かな時間であったとしても、手が握り返されそして目が合ったことは、意思の疎通ができていたものだと僕は思う。
 彼は、広島カープの熱烈なファンである。若かりし日の僕の父親となるべき人物が挨拶に行ったとき、ラジオを聞いていた彼は挨拶を遮ったと言う。「今、カープの試合を聞いてるんじゃ、ちょっと待ってくれ」というのが理由だったとか。
 小学生の頃の僕は西武ライオンズが好きだった。一度、両者が日本シリーズを戦ったことがある。一人で新幹線に乗り、祖父と市民球場で観戦した。勝敗は既に記憶にないが、スタンドのコンクリートのざらざらした雰囲気が不思議と印象に残っている。
 試合のある日は、病室からも球場の歓声が聞こえるという。

 この六日後に祖父永眠。市民球場でカープが阪神に18-11で負けた翌日のことだ。冥福を祈る。


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