亜細亜中心

 東京は、山手線の新大久保駅近くに「屋台村」という店がある。
 店の外から窺う限りでは、店内は薄汚く、積極的にドアを開けて中に入ろうという気にはならないかもしれない。いや、それ以前に、路地から少々奥まったところにある入り口にすら気付かないかもしれない。
 だが、たった2回しか訪れたことがないにも関わらず、僕はこの店の熱狂的な支持者となった。浴びるほどに酒を飲み、例え胃袋がはちきれても次から次へとメニューを注文しては箸を動かさずにはおれなくなったのだ。
 かの小説「不夜城」においても、主人公、劉健一が腹ごしらえをした場所として登場してきた(残念ながら映画では扱われていない)。
 一歩踏み込むと、注文を取る声や机を囲む人々の間で様々の言語が入り乱れる。ただよう香りは旅の空の下では馴染みの香辛料や調味料の匂いであったり、誰かが吸っているガラム煙草の煙であったり。ランニングシャツ姿の親父が腹を出していたり、きれいに化粧をした女性が麺をすすっていたり。
相席だってごく当たり前のことなだけど、席に着くと、各店の人が注文を奪いにやってくる。タイ、香港、中国、インドネシア、マレーシアの料理を出す店がそれぞれ客の争奪戦を開始するのである。
 メニューは親切にもそれぞれの料理の写真が載っていて事務用のファイルに綴じられている。とりあえずぱっと開いたページの店の人が「これ、おいしいね」とすすめてくる。そうか、そうかと「じゃ、とりあえずそれにしようかな」と気弱なことを言っているようでは、何もかもが終わりだ。一度ペースに飲まれてしまうと、「野菜はこれがおいしい」「スープはこれね」と何を言う間もなく、気付いたら注文が終了してしまう。
 一度弱気になってしまうと、ありとあらゆる申し出に対して受動的にならざるを得ないという意味では、観光地の客引きや、あるいは大学の新入生に対するビラ配りのようなものである。
 何を食べたところで、まず間違いはないと思われるのだが、やはりそこは自分の好みや懐具合と相談をした上で、じっくりとベストを選択した方が楽しいに決まってる。
 僕が幸運だったのは、案内する人があったことだ。一皿ずつの量がかなりたっぷりとあるので、4人ほど集まらないとなかなか種類を頼むことはつらい。だが、彼女は「これ、半分だけちょうだい。その分安くしてね」と頼み、さらには「裏メニュー、何がある?」と堂々と尋ねるのであった。何事にも先達はあらまほしきことかな、である。
 日本にいながらにして、アジアの屋台で食べているあの興奮が得られるものだから、僕の頬はゆるみっぱなしで、恥ずかしいくらいにはしゃぎ、次から次へと杯を重ねてしまう。少々残念なのは、ジョッキで飲めるのが、スーパードライであるということくらいか。
 もう満腹しきっているのに、もう一皿「魚のだんごの汁ビーフン」などを注文してしまい、あまつさえ甘いものは別腹と「ココナツプリン」を頼み、至福の絶頂にいたるのである。もちろん、余った分は包んでもらい、翌日の密かなごちそうになるのである。
 重たいお腹と、全身をかけめぐるアルコールのせいで、足元はふらつきながらも、店を出てもしばらくは、湿気がまとわりつく熱帯の国を歩いているような気分に、めいっぱい浸れるのである。


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