おやじ

 大学のサークルのOB会があった。同じ年に入学して、僕より一年早く卒業していった友人たちと久々に出会った。一次会が気持ちよく終了して、店の外に出た。体を伸ばして「ふあ〜」って声をあげながら伸びをしたら、横にいた後輩がぼそっと言った。「粟津さん、おやじみたいですよ」
 心に突き刺さる一言であった。
 「そんなん言うけど、今日はここに来るまでずっとバイトしとってんから、疲れとんねん」という口をついて出た言い訳も、我ながら格好悪かった。
 これとはまったく関係ない場所でも、お酒をおごってもらった相手に「ごち」って言ったら、やはり「おやじみたい」だと指摘された。
 爪楊枝で歯を掃除したり、おしぼりで顔を拭いたりという動作は僕は大嫌いだ。半ば公然と、他人に生理的な不快感を催させる身体的行動をとること、それこそがいわゆる「おやじ」だと思っていた。けれど、その自分自身がおやじ呼ばわりされたことに少なからぬショックを覚えた。
 しかし、以来、意識してみると、何てことのない動作をしながら「よいしょ」と声をかけている自分に気付くこともあった。
 いったい、いつの間に僕はこのような年の取り方をしてしまったのか。
 僕はまだ十分に若いと思うのだが、多分そう考えること自体が完全無欠の若者ではなくなった証拠だろう。
 思えば、小学校の頃は、誕生日が人生における一大イベントであり、しばらく前から待ち遠しくて仕方なかった。春になって、新たな学年に進級するのも楽しみであった。ところが、高校あたりで、大した感慨もなくなった。「そういえば、誕生日だったか」という程度だ。
 大学に入って二十歳を過ぎたあたりから「一年は早いなあ」という少々否定的なニュアンスの含まれた感想を抱くようになった。一回生の頃は、一晩ずっと酒を飲んでいても、楽しみを発生させるエネルギーのようなものが全身を駆けめぐっていた。けれど、最近は、翌日の身体的つらさや、しなければならないことなどを思い出すと、ほどほどになってしまう(それでも、ほどほどを超すことはよくあるのだが)。
 僕らが入学した時、上回生が「ああ、(昭和)50年代が入ってくるようになったのか」と嘆く声を何度か耳にした。しかし、昨年の春にはその僕たちが「今年は(西暦)80年生まれも入学してきたんだなあ」としみじみと語ったものだ。
 年を重ねることは生きている限りどうしようもない。潮の満ち引きと同じことで、誰にも止められない。注意深く耳を澄ませば、密やかに過ぎてゆく歳月の足音が聞こえるのかもしれない。だが、振り向いたとしても、その方向にはもはや誰もいない。
 年をとり肉体的な機能が低下していくことを当然だとして、周囲に不快感を与えることは極力避けたいと思う。まだ今の年齢だから「おやじくさい」と言われても、冗談に転化させることはできる。むしろ、面と向かって相手に指摘されるだけ救いがあると考えるべきだろう。
 陰でこそこそと「ちょっと、粟津さんておやじだよね」と言われてしまう前に、少々自分を戒めておこう。


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