カタルシス

 終了のチャイムで鉛筆をコトリと置く。張り詰めていた緊張を、ゆっくりと長い呼気とともに吐きだす。誰が何と言おうと、これで試験は終わった。
 たいていの場合、できの程度は結果を待たずして自分で分かるものだ。目標を超えたという手応えによって、先ほどまでとっぷりと浸かっていた重く冷たい水銀の海から一気に浮上する。さらに浮力は加速し、大空高く上昇する。高揚感は心臓を常より早く大きく震わせ、血液が体内を熱く駆けめぐる。
 もちろん、どんな試験でもというわけではない。自分が目標を決めた上で、それなりの努力をはらって臨み、しかも得点した確信があれば、のことだ。
 先日受けたTOEICで、ものすごく久しぶりにその恍惚感を得た。学生時代の目標の一つに、TOEICで満点をというものがあった。もちろん、満点であるからどうこうという具体的な意味があるわけではない。自分が学習を続けるための一つの里程標に過ぎない。分かりやすい形での目標とたどるべき距離が目に見えている方が進みやすい。昔の船乗りが星を見上げて航路を見つけたように。
 前半戦は聞き取りが100問、後半戦は読解が100問。特に聞き取りの方は耳さえ慣らしていれば、それほどの難易度ではないと思うのだが、何せ立て続けに出題されるので、選択を躊躇したりわずかに気を抜いたりしている間にも次々と進行してゆく。集中力が保てなくて、いくつかはのがしてしまった。マークシート式なので、適当にどれかは塗りつぶしてあるが、果たしてそれが正答かどうかはわからない。
 これまでの読解では最後の最後まで「これ、何を言いたいんだ?」と意味をつかみかねる文章や単語があったのだが、今回はそれがなかったように思う。ただ、英文を読む主体的な努力を続けてきたとは言い難いので、たまたま運が良かったのだろう。
 確実に一つ間違えたのは、誤用を指摘する文法問題。二択に絞った上で、contentsを単数形かもしれないと誤った判断をしてしまった。「コンテンツ」とよく耳にするから、ひょっとしたらと。そりゃあ違うだろう、と言われたら言葉を返せない。知識があやふやだとこうなる。その前に当たりをつけていた方が正答だった。昔からこの癖は直らない。最初に選んだ方が正解であることがほとんどなのだが、それでもふと「いや、こちらでは」という甘い誘惑に負けてしまう。
 もちろん、自分で間違えたと分かるものだけではなく、結果を見て「あらら」というものがいくつも出てくるだろう。しかし、とりあえず結果が郵送されるころにはパキスタンにいる。僕が封を切るのは3月の終わりのことなので、今の内に格好いいことを言っておこう。


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