海から吹く風

 お金を貯めるには「本は買わずに、図書館で」というのが一つの策なのだと聞いた。そこには三つの利点があるのだと。つまり、お金がかからないということと、期限があるから積ん読にならないということと、家にものが増えないということ。
 そういえば転入届を出したときに、「西宮市民べんり帳」のごときものを受け取った。縦開きで横書きという、使いにくい冊子ではあるが、ぱらぱらとめくって中央図書館の位置を確認する。近い、というほどではないが、自転車で行ける距離ではある。さっそくに携帯電話と財布をポケットに入れ、FMラジオをイヤフォンから聴きながら自転車をこいだ。
 2号線を渡り43号線を越え、西へ向かうと夙川にぶつかった。「夙川オアシスロード」なる、よく整備された(あるいは整備されすぎた)川岸を下る。緑が天蓋のように頭上を覆い、わずかに汗ばんだ身体を5月の風が吹いてゆく。
 残念ながら図書館に到着したのが閉館の10分ほど前であったので、借り出し券を作るだけしかできなかった。
 さて、せっかくこれだけ気持ちがよいのだから、このまま帰ってしまってはもったいない。「香枦園浜」という道標にしたがって、さらに南下を続けることにした。西宮に引っ越してきて以来、海がかなり近くにあるということを知ってはいたが、なかなか出かける気にならなかった。せっかくだから、今日は海を見てぐるっとサイクリングをすることにした。
 意外にすぐの所で、ヨットやカヌーを漕いでいる人がいる。砂浜ではバーベキューをしている人がいる。だが、ここはぐるりと入り江になっているので、もう少し先へ行けそうに見える。
 南へ行き着くと、ヨットハーバーがあった。その横には綺麗に芝生が植えられた公園。家族連れがボールで遊び、ベンチにはカップルが座っている。犬の散歩をする人、ジョギングをする人。河口に向かって釣り糸を垂れる人々。西側には六甲の山並みが手に取るように近くに見える。太陽がその空にやわらかく霞む。潮の香りが鼻をくすぐる。
 そのとき、郷愁や既視感とも言うべき旅の感慨が、ふっと、僕を包むかに思えた。だが、それは頂点に達する前にすうっと風の中に消えてしまった。両手を伸ばしてつかまえる前に、跡形もなく。
 引っ越して一月と少々。初めての街で探索の半径を徐々に広げつつある。その都度、僕は未知なる光景に出会う。それは旅と呼んでもいいのかもしれないが、あまりに日常に接し過ぎている気もする。
 けれども、一瞬であっても、予感を得たことは確かなのだ。次の週末には、図書館で本を借りて、缶ビールを持って、もう一度海へ向かおう。


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