僕のいない家で
扉を閉め、鍵をかけるときに頭に浮かぶイメージがある。僕が歩き出した次の瞬間、ドアの向こうでは家が活動を始めるのではないかというものだ。夜になるとブリキの兵隊やフランス人形がおもちゃ箱から飛び出すように、僕が出ていくと家の中の諸々が動き出す。だから、数秒後に忘れ物に気付いてもう一度鍵を開けるとき、無意味だとは分かっていても素早くドアを開いてしまう。例えば勢い余ったマグカップなんかが飛び跳ねているところを目撃できるかもしれないという期待を抱くから。
もちろん、何も変わっていない。読みかけで枕元に放っておいた本のしおりの位置はそのままだし、マグカップだとて自分で自分を洗ってさっぱりと食器棚に戻っているわけでもない。
一人で好きなように生活しているからと言っても、僕が主体で家を構成しているのは単なる物であるとはあまり考えられない。薬缶が鼻歌を歌ったり、ゴミ箱が自分でゴミを拾ったりというように擬人化しているわけではないのだが、何かしらの愛着を感じ取るのだ。逆に、愛着があるからこそそのように考えてしまうのかもしれない。互いに抱く親密さ、と表現するのがふさわしいかもしれない。ひょっとしたら、ただ単にずっと一人でいることから抜け出したくてそんな風に空想しているのかもしれない。
観葉植物を置いてみたり、水槽に熱帯魚を泳がせてみたいと思うことがたまにある。生物に対してはもう少し具体的な関わり方が見つけられるだろう。だが、やはり「実際に」毎日水やりをしたりエサをやったりという手間を考えたり、あるいはいずれは枯れてしまった、死んでしまうのだろうと予想してしまうと、その面倒臭さが先に立ってしまい実現には至らない。
ある日、家に帰るとCDがかかっていた。曲が終わると自動的に電源が切れるように設定して出たはずなのだが。まさかひとりでに?という疑問も浮かぶ。が、なんのことはない、1曲だけをオートリピートにしていたためにその曲は終わることがなく、従って電源も切れなかったのだ。
ひょっとしたら、家の中の連中はその間ずっとリズムに合わせて踊っていたかもしれない。この想像はまた僕を楽しくさせる。
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