リオ・デ・ジャネイロ、雨

 木曜日の朝、梅田の辺を歩いている。台風が一つ通り過ぎたおかげで、さっぱりとほこりを洗い流された透明な空気がさりげなく秋の到来を教えていた。右手には傘を持っている。秋雨前線だか次の台風だかの影響で午後の降水確率が低くはなかったからだ。ヘッドフォンからはこの時間に似つかわしい音楽とDJのおしゃべりが流れてくる。
 コーナーが変わって、世界の天気。キャスターの発声は、まるでスナップをきかせて魚を釣り上げるみたいに語尾に勢いがある。彼女が地名を言うと、僕は頭の中に広げた地図でそこを探す。具体的な様子が浮かぶいくつかの街、その位置すらあやふやな街。彼女の声に従って、僕は地球を俯瞰しながら大洋を渡り、そびえる山脈を越え、風とともに平原を走る。
 ふと「リオデジャネイロは雨」とそれまでとは違った響きで耳に飛び込んできた。足許をずうっと延長した街に、今雨が降っている。さらにその先にある雨雲から。それは世界地図上の点ではなく、確たる情景として映像的に描かれるべき土地だった。
 なんで今朝に限ってリオデジャネイロなんだろう。たいていそれはバンコクだった。「バンコク」という音だけで、ジャスミンの花と排ガスの匂いが現れる。初めて一人で降り立った外国の地。旅にまつわる様々な記憶が凝縮され、これからにおいてさえも限りない魅力を約束してくれる天使の都は、僕にとって特別な意味を持っているからだ。
 足を踏み入れたことすらない大陸の、その名前と有名なカーニバルくらいしか知らない場所がふっと僕をつかまえた。ただ単に帰宅時の備えとして持っている傘だけど、たった今リオにいたとしても使えるのだということに気付いたことで。傘を媒介としたこの発想の飛躍は、純粋に旅への欲求からなのだろうか、それとも日常からの逃避という否定的な願望からなのだろうか。
 けれども、具体的なリオの様子を思い浮かべようにもあまりにも材料が不足していてうまくいかなかった。ブラジルの場所は分かる、だがその中でリオデジャネイロはどこにあるのだ。
 それでも想像の中で僕は現実のリオにいた。通りを歩く、水滴を感じる、どんよりした空を見上げてみると、次から次へと雨滴が降ってくる。そして右手の傘を開く。
 彼女は原稿を読み上げ、世界をめぐる。「そして最後に、カイロは晴れています」。スフィンクスの前では、この傘を閉じよう。


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