幼い間違い電話

 家に帰って、初めに目がいくのは電話機。「着信メモリー」が点灯していれば、留守の間に誰かが僕にコミュニケーションをとろうとしていたことを、「留守」のランプが点滅していれば、メッセージが残されていることを意味する。
 ある夜、点滅しているボタンを押してメッセージを再生した。「Y子です……」と聞いて、とっさに親戚の一人を思いだしたのだが(実際、ちょっとした頼み事をしていたので、連絡があってもおかしくなかった)どうにも声に違和感を得る。僕が思い浮かべた相手よりもずっと若いのだ。だが、それ以外のその名前の相手を知らない。
 間もなく、スピーカーから流れる声が幼い女の子に変わった。「おばあちゃん……」と始まるそれは、明らかに間違い電話だと教えてくれた。どう考えてもこの家にその呼称にふさわしい人間はいないし、僕にはその幼い声の主に「誕生日プレゼント」として「お菓子を贈った」記憶はどこにもない。
 親に促されて、ひょっとしたらあらかじめ練習したのかもしれないお礼の言葉が続く。僕に対して向けられた言葉ではなかったことは悲しかったけれど、電話口の向こうを想像することで微笑むことができた。
 さて、しかし聞きっぱなしというわけにはもちろんいかない。せっかくお礼をしたのに、それが肝心のおばあちゃんに届いていないということを知らせてあげるべきではないか。向こうにしてみたら、もしかしたらプライベートな会話がまったくの第三者に届いてしまったことでよい気分にはならないかもしれない。だが、結局ダイヤルをカタリと回して表示された発信元の番号にかけた。ナンバーディスプレイのサービスがこんな形で役に立つとは思わなかった。
 応対したのは最初に名乗った母親だった。事情を話したら、随分と恐縮されお礼の言葉までいただいた。留守電で応答した僕の声がかけた相手の家族の一人にそっくりだったので、間違いだということにまったく気付かなかったのだそうだ。
 躊躇しながらもこのような行動をとったのは、僕自身にも何かというと「お礼を言いなさい」あるいは「礼状を出しなさい」とくどいまでに親に躾けられた記憶があったからだろう。どちらかと言うとそれは面倒な作業で、「ええやん、おばあちゃんなんやから」という意識の方が強かったことを覚えている。だが、それはそれであり、ある意味社会性の訓練でもあったのだと今は知っている。ものすごい仮定の話しだが、僕に子どもができたとしたらやはり同じように育てるだろう。
 それだからこそ、せっかくのお礼の言葉を発したその幼い子の意思をないがしろにはできなかったのだ。


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